第26話 藤王と清田

 スタンドでは両チームのファンが、戸惑いざわついている。


「どうして……なぜ藤王さんにバントを……」


 藤王に対する余りの仕打ちに、真希は言葉が続かなかった。


「まあ、確実にランナーを送りたいなら妥当な作戦だな。強打者の藤王がバントするなんて相手も思わんからな。こりゃあ、桂木にも代打やろう。藤王はおとりで勝負は次の打者。非情な采配やけど、次の代打に自信があれば納得や」

「だとしても酷すぎます。これじゃあ晒し者ですよ!」


 岸部の話に一理があると分かっていたが、真希は黙っていられなかった。だが、他の記者達も殆どが岸部と同じ認識なのか次の打者に注目していた。



 藤王はベンチ裏にある手洗い場で、頭から水をかぶって冷静になろうとしていた。


――監督の判断や。きっと勝利につながる、チームの為なんや。

――……でも、俺はそこまで信用されていないんか……。


 藤王は何度も何度も心の中で自分に言い聞かせたが、それでも情けなさが込み上げてくる。


「なんで、打たんとバントしたんや」


 藤王の後ろから声が掛かる。


 藤王が振り返ると、怒りの表情を浮かべた清田が立っていた。


「清田……」

「なんで自分で決めようとせず、バントなんかしたんや! あんたにプライドはないんか」


 なぜ清田が怒っているのか、藤王には理解出来なかった。


「お前サイン見てたんか。バントのサインやったんや。俺はそれに従っただけや」

「そんなもん分かってる! サインなんか無視したればええねん。打つ自信があるなら打ってサヨナラにしたらええねん。あんたそんな気持ちで四番を目指すつもりなんか!」

「なんやと!」


 まだ冷静に成り切れていない藤王は、清田の遠慮無い言葉で頭に血が上る。


「お前に何が分かるんや!」

「俺にはよう分かったわ。あんたが四番に相応しくない人間やってな」


 藤王と清田はお互いに相手の胸倉を掴んだ。


「お前らいい加減にしろよ」


 藤王と清田がつかみ合いになった瞬間、様子を見に来ていた橋本が間に割って入った。


「お前は誰にでも喧嘩売るんだな。ちったあ、ここで頭冷やせ!」


 そう言うと橋本は清田の方を手洗い場に押しやった。


 橋本は清田が向って来ない事を確認すると、藤王の方を向いた。


「でもなあ、藤王……」


 橋本は藤王の肩に手を置き、ぼそりと言った。


「俺も無視して欲しかったぜ。お前なら決めてくれると期待したからな」


 橋本は「行くぞ」とぶつぶつ文句を言っている清田を引っ張ってベンチに戻って行った。


「そ、そんな事……」


 藤王は橋本に反論しようとしたが、言葉が続かなかった。


――そんな無責任な事を言われてもどうすれば良いんや。俺はサインに従っただけやのに。俺だって打ちたかったのに。


 藤王はもう自分でも何が正しいか分からなくなっていた。



 桂木はネクストバッターズサークルで、ベンチの野川の様子を伺っていた。 


――あの場面で藤王さんにバントをさせるなんて、さすがに驚いたな。監督は余程俺の代打に自信があるのか。


 あの場面で藤王にバントだったのなら自分には代打しかないと考え、桂木はベンチからの指示を待っていた。だが野川に何の動きも無い。


「バッター」


 審判が桂木に、バッターボックスに向うよう促す。桂木はもう一度ベンチを見たが、やはり動きがないので仕方なくヘルメットをかぶり歩き出した。


――監督は俺に何をさせようと言うのか。


 桂木は野川の意図が掴めないままバッターボックスに立った。


「あの……監督、代打は良いんですか?」


 ベンチ内を代表して松下が恐る恐る野川に聞く。


「ああ、大丈夫だ」


 野川は動じる事無くグランドを見つめて言った。


「桂木投手がそのまま打席に立ちましたよ……」


 代打もなく桂木がそのままバッターボックスに立つのを見て真希は驚いた。


――代打じゃないなら、どうして……どうして藤王さんを打たさなかったのか……。なぜ? 明日のテレビは藤王さんより桂木さんの方が打つと言うの?


 どうしても真希は納得いかなかった。


「これは来たか! 野川流ミラクル采配や。桂木のサヨナラあるで」


 記者席全体が岸部と同じように思い、期待のこもった表情でグランドに注目していた。


 第一球、第二球と桂木はバットを振る事無くストライクを見逃した。ベンチから何かサインが有るだろうと思って、桂木は待っていたがフリーで打てと言う以外何も無い。


――本当に、ただ打てば良いのか?


 追い込まれているのでこれ以上見逃す訳にも行かず、桂木は第三球目を振りに行き、辛うじてボールをバットに当てた。

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