第25話 代打藤王
試合は緊迫感のある投手戦で進んだ。桂木も直球のスピードこそないが、コーナーを丁寧に投げ分け、打たせて取るピッチングで八回を一点のみに抑えていた。
一対一の同点で迎えた八回裏タイマーズの攻撃。
松下はチラリと横目で野川の様子を伺った。野川は両腕を胸の前で組んだまま、無言でグラウンドを見つめている。
そろそろ、延長戦を視野に入れて選手交代を考える時間だが、まだ野川にその気配は無い。松下は気を利かせて、二番手投手の準備や、次の回に打順が回りそうな桂木の代打の用意はしていた。だが、肝心の野川に動く気配は無かった。
――もしかして延長戦まで桂木を投げさせるつもりなのか。
松下は野川の考えをはかりかねていた。
八回裏の攻撃も無得点に終わり、九回表シャインズの攻撃。
ここで桂木はピンチを迎える。二アウトながらランナー一、二塁、打席には相手の四番阿武。
松下は今の桂木の球では通用しないと考えた。明らかに投手交代の場面だ。
横目で野川の様子を窺うが、腕組みしたまま動かない。
結局、桂木の交代は無く、プレイが開始されて三球目。阿武が外角のストレートを芯で捕らえてはじき返す。打球は高く伸びて行き、左中間を割る長打コースに飛んで行く。
抜ければスタートを切っているランナーの生還は確実だ。外野の芝生にバウンドするかと思われた一瞬。レフトの清田がダイブし捕球した。
「ぐっ」
ダイブして捕球した清田の顔が苦痛で歪む。痛めている左肩に衝撃が走ったのだ。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫も何も、これくらい俺には普通のプレイですわ」
駆け寄って来た橋本に怪我を悟られないよう、清田は素早く立ち上がり憎まれ口を叩いた。
九回裏タイマーズの攻撃に移り、ワンアウトランナー二塁と一打サヨナラのチャンスが訪れた。
打者は八番キャッチャー上田。その次の打者が桂木な事を考えると延長の可能性を見据えた難しい采配になる。
松下が野川を見るとすでに動き出し、グラウンドに上がる所だった。
「代打、藤王」
野川はそう審判に告げるとベンチに戻って来た。
松下は慌てて素振りをしている藤王を呼ぶ為、ベンチ裏に急いだ。
「藤王、出番だ」
「はい!」
松下に呼ばれ、藤王が準備をしてグラウンドに上がる。場内に『代打藤王』の名前がアナウンスされると、スタンドから地鳴りを伴った大歓声が上がる。ファンは待ち望んでいたのだ。藤王がヒーローとして帰って来る日を。
「藤王さん、決めて下さいよ」
次の打者で、ネクストバッターズサークルに入る桂木が藤王に声を掛ける。
「任せとけや。お前に打順は回さんからな」
久々の公式戦の打席に、藤王は緊張と興奮で身震いした。しかも一打サヨナラの好機。ここまで、出番が無くてもずっと地道に努力してきた成果を出す絶好の場面だ。
――やっと出番が回ってきた。監督の期待に応える為に、絶対に二塁ランナーを帰す。
藤王は大歓声に背中を押され、強い決意で打席に向った。
「藤王さん!」
真希が場内アナウンスに反応したのと同時に、記者席にもどよめきが上がった。
もう四十試合以上、代打でさえ出場が無かった元四番の打席に、記者達の期待も高ぶる。ここで打てば、明日の一面を飾るにふさわしい場面だ。
「ええぞ、ここで打ったら明日の一面は久しぶりの藤王や。頼むで」
「大丈夫です! 藤王さんは絶対に打ちます!」
横で拝むように見つめている岸部に真希は断言した。
他の記者と違い、真希にはここで藤王が打つという確信があった。この場面で明日のテレビが代打に起用したという事は、悪い結果になる筈が無いからだ。
――藤王さん……やっとだ……やっと藤王さんの努力が報われるんだ……。
真希は一瞬たりとも見逃さないように、身を乗り出した。
バッターボックスで準備をする藤王を見て、野川がすかさずランナーコーチにサインを送る。
「か、監督、そのサインは……」
松下が驚いて声を上げたが、野川は何も動じず腕を組んでグランドを見つめている。
「うっ……」
ランナーコーチからサインを貰った藤王は一瞬動揺して、小さく唸った後、気持ちを抑えるようにバッターボックスの足場を慣らし、いつもの儀式に入った。
ピッチャーがセカンドランナーを目で牽制してセットポジションから第一球を投げ込んだ。
「あっ!」
記者席で真希が思わず声を上げた。
同様の声は記者席でもスタンドでも相手ベンチからでさえも上がった。藤王は投球と同時にバントの構えに入り、三塁側に打球を転がしたのだ。
長打を警戒して深い守備を敷いていた三塁手は、慌てて前進して捕球する。だが一塁に投げるのがやっとで、二塁ランナーは三塁に進み藤王の送りバントはたやすく成功した。
藤王はアウトを確認すると下を向いて小走りでベンチヘ下がり、そのまま奥の通路に消えて行った。松下は藤王の様子が気になったが、桂木への代打の事を考え追う事が出来ない。
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