第10話 美月の苦しみ

 真希が藤王にインタビューした日の夜、美月は郊外の隠れ家的な小さなレストランで食事をしていた。


 普段着ているジーパンにシャツのカジュアルな服装ではなく、ノースリーブの白いワンピースに明るいオレンジ色のカーディガンという美月には珍しいお洒落な装いだ。


 化粧も普段は殆どしないのだが、今日は念入りに仕上げて来た。こうしてお洒落すると普段の幼さが消え、評判の美人だった母の面影が強く容姿に現れている。


 美月がお洒落しているのには訳がある。


 今日の明日のテレビのチェックは休みの父に任せ、友達と遊びに行くと嘘を吐いてデートに出掛けていたのだ。相手はタイマーズの若きエース桂木だった。


 二人は二年前、球団主催のパーティーで知り合い交際していた。


「せっかくの休みやったのに、ゆっくりしてなくて良いの?」


 桂木はこの九連勝中三試合に先発という現代の野球では有り得ないペースで登板していた。


「俺は美月と一緒に居る時が一番リラックス出来るから、十分に有意義な休みだよ」


 桂木がそう言って笑う。


 高級なスーツを着て爽やかに笑う桜木は、こうしていると、とてもプロ野球選手には見えない。


「ありがとう。そう言って貰えるのは嬉しいけど、体は大丈夫? 疲れてない? 心配やわ」

「大丈夫。高校時代はもっと短い間隔で投げていたよ。三日連続完投なんて当たり前だったんだから」

「でも、もし故障でもしたらと思うと……」

「確かに間隔を開けるより故障のリスクは高いよ。でも俺は直接監督から頼まれたんだ。信頼されて、お前しかいないってマウンドに送られるのは最高に誇らしい。もしそれで故障して、投げられなくなったとしても俺は後悔しないよ」


 桂木は安心させようと言ったのだが、美月は怪我さえも覚悟しているかのような言葉を聞いて余計に不安そうな表情になった。


「もし、俺が投げられなくなって、プロじゃなくなったら美月はがっかりする?」


 桂木にそう聞かれて、美月は一瞬驚いた表情を浮かべた。


「なんでそんな事聞くん?」


 驚いた表情はすぐに消え、美月は今にも泣きそうな顔で怒った。


「もし義人君がフリーターになったとしても私は一緒にいるよ。プロの選手は幼い頃から夢を実現させる為に、野球一筋の生活をしてきてるって、お父さんから聞いてたから。怪我で義人君の夢が絶たれたらって思ったから……」

「ご、ごめん。いや、そんな怒らせる気は無かったんだ、本当にごめん」


 怒って泣き出した美月をなだめようと、桂木はおろおろしながらスーツのポケットからハンカチを取り出して手渡した。


「う、うん……」


 美月はハンカチを受け取り、涙を拭いて少し落ち着いた。


「信頼されて嬉しいのは他に訳があるんだ。俺、監督に認めて貰いたいんだ、一流の投手として。そしたら……」


 桂木はポケットの中から小さな箱を取り出した。


「オフになったら監督に挨拶に行く。だからこれを受け取って欲しい」


 桂木は手に持った指輪の箱を開き、美月に差し出した。


「これ……」


 美月は箱の中でキラキラと輝くダイヤの指輪を見て言葉に詰まった。


――こんなに想っていてくれているのに、私は義人君を騙している……。このままテレビを使い続ければ、義人君はもっと使われてしまう。私はどうしたらいいんやろう……。


 嬉しさと、打ち明けられない秘密が心苦しくて、美月はまた涙がこぼれて来た。


「迷惑だったかな……」


 美月の様子を見て桂木は心配そうに尋ねた。


「ううん、すごく嬉しい。でも私で良いの?」

「何言ってんの。俺は美月じゃなきゃ嫌なんだよ。だから絶対に監督から許しを貰えるようにがんばる」

「ありがとう」


 美月は桂木が故障なく今シーズン投げ終えられるように願うしかなかった。



「二軍の試合に出たいだと?」

「はい、実戦で試合の感覚を掴みたいんです、お願いします」


 試合前、ベンチ内で野川と松下が打ち合わせしている所に藤王が直談判に行った。


「良いじゃないですか。今のチームは調子良いですが、藤王の出番も必ず来ますよ。その時にベストで働けるように調整する意味で」


 藤王が九連勝中に一度も試合に出ていないのは松下にとっては意外で気がかりだった。連勝中の良い流れを、選手起用で変えたくはないので、一軍で起用出来ないのは仕方ない。その代わりに、藤王が二軍で調整する事は松下も賛成だった。


「好きにしろよ」


 野川はそう素っ気なく言ったが、心中は複雑だった。


――この九連勝中に出番が無いと言う事は、藤王が出れば負けると言う事だ。二軍で調整するのは賛成だが、調子が良くても使えるかどうかは分からない。たとえ本人が活躍するとしても、チームが負けるのなら使う訳には行かない。

――今は明日のテレビには逆らう訳にはいかない。使いたくても藤王は使えないんだ。


 野川は自分に言い聞かせた。



 夏の日差しが厳しいデイゲーム。カーンと鋭い音を響かせ、藤王の放った打球が飛んでいく。


「ヨシッ!」


 藤王が快音を響かせたと同時に真希は立ち上がり、打球が外野席に到達したのを見て小さくガッツポーズした。


 大阪スタジアムのサブグラウンドで二軍の広島戦が行われていた。


 二軍に出場が決まった後、真希は志願して藤王の担当記者となっていた。清田の活躍で担当記者の配置替えが行われ、その社内会議で志願したのだ。休む事をしない為プライベートの時間が削られる藤王の担当を、記者の誰もが内心では嫌がっている。そこに新人で岸部の雑用係をしていた真希が名乗り出たので、スムーズに許可されたのだ。


 簡素な施設のサブグラウンドは記者席などなく、真希は日差しに晒されながら、内野スタンドから観戦している。


 ベンチに戻る藤王と目が合い、真希は親指を立ててサムズアップで祝福した。藤王も気が付き、同じように返してくれたのが真希にはとても嬉しかった。


――今日の藤王さんの打撃はこれで三打数二安打、内一本はホームランと上々のスタートを切った。一軍と二軍では投手のレベルが違うが、こうして好成績を積み重ねていけば野川監督も使ってくれる筈。

――少しでも紙面で使って貰えるように、私も取材を頑張んなきゃ。


 藤王の活躍に真希の期待は膨らんだ。

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