第3話 球団売却の危機
「なんだ、デビット。来るベンチを間違えているぞ。お前はあっちだろ」
松下が不快そうに三塁側のベンチを指さす。
「松下さん、私間違えてナイ。藤王に用があってここに来たヨ」
「こっちはお前に用はないよ。負けたチームに失礼だろ。さっさと帰れ」
「そんな小さな事を言わないデ」
「あっ、お前!」
ナーバスになっている藤王を守る為に松下が追い返そうとするが、デビットは構わずベンチ内に入って藤王の前に立つ。
「藤王! お前に聞きたい事があル」
「何ですか? 俺に聞きたい事って」
「お前、どこか怪我をしているだロ?」
デビットに付いて来た記者達が興味を持ち、二人に注目する。
「えっ? いや、怪我なんかしてへんけど……」
藤王はデビットの意図が分からず戸惑う。
「ええっ! 本当なのカ? 本当に何処も怪我をしていないのカ?」
デビットは藤王が怪我をしていると思い込んでいたようで、本気で驚いている。
「何が言いたいんだ、お前は!」
二人のやりとりに松下が割って入った。
「五年前、俺は野川のプレイビデオを観て日本に来る事を決心しタ。日本には、メジャーに興味がない素晴らしい打者が居ると分かったからダ。だが、日本には野川以外にグレートな打者は居なかっタ。失望した俺がもう故郷に帰ろうかと思った時に、藤王、お前を見たんダ」
デビットが真剣な眼差しで藤王を見る。
「野川が現役に復活したのかと思ったヨ。それぐらいお前にもオーラがあった……。俺の目に狂いは無ク、お前はどんどん活躍して今シーズンからいよいよ四番となった……」
不意にデビットが藤王の両肩を掴む。
「俺の喜びが分かるか藤王! あの、世界でもナンバーワンのグレートな打者、野川の生まれ変わりと対戦出来ると思ったんだヨ!」
デビットは急に悲しそうな顔になる。
「だのに、なんだお前ハ……四番になってからと言うもの、すっかり普通の打者になっタ。いや……今のお前は普通以下ダ……」
「何を勝手な事……」
「良いんです、コーチ!」
デビットを引き離そうとする松下を藤王が止める。
「今シーズンダ……今シーズン終了までに、お前が野川になれないのなら、俺は故郷に帰ル……」
デビットは小さな声でそう言うと藤王の肩を掴む手を離してベンチから出て行った。
「勝手に帰りやがれ!」
松下は去って行くデビットの背中に叫ぶ。藤王はデビットに反論できない自分が悔しかった。
ベンチ裏の通路を監督室に向かって歩く、野川の顔は怒りに満ちていた。
――俺が現役なら、あんな場面では絶対に逆転できた。俺が打席に立てるならどんなに楽だろう……。
――藤王が本物になってくれれば……。
期待も大きいだけに、なかなか殻を割って成長出来ない藤王には特に怒りも大きかった。
「あ、監督が来ましたよ」
監督を会見ブースで待っていたヨンケイスポーツの小野寺真希(おのでらまき)が、大先輩の岸部(きしべ)に野川の到着を告げた。
だが、野川は会見ブースで待つ記者達の横を、立ち止まる事はなく無言で通り過ぎる。
「あっ、監督……」
待っていた記者達の一人が声を掛けるが、野川は無視して歩いて行く。
「あーあかんな、今日もコメントは無しや。松下コーチに聞くか……」
通り過ぎた野川を見て岸部が呟いた。
野川の取材拒否に対して、文句を言う記者は一人もいない。ベテラン記者は野川の性格を良く知っており、無理にコメントを取ろうとしても怒らせるだけだと分かっているからだ。
こう言う時は松下コーチにコメントを貰えば良い。松下は自分の事だけでなく、野川の考えまで代弁してくれるので明日の紙面に困る事はないのだ。
「ちょっと待ってくださいよ。ファンを無視するのもいい加減にして貰わないと! もう許せません!」
真希は野川に対する記者達の慣例を知っていたが、それが良い事だとは考えていなかった。
「許せんって言うてもなぁ……」
「私、意地でもコメント取ってきます!」
「あっ、お前……」
そう言うと真希は小さい体で記者達の間をすり抜け、野川の後を追いかけた。
「行ってもうたか……」
岸部は、しゃあないなぁと心の中で呟いた。
真希は入社二年目でプロ野球担当は今年から。積極的で好奇心も強く見所はあるが、化粧っ気の薄い顔のくりっとした瞳が輝き出すと後先考えずに突っ走ってしまう。
「監督を怒らさんといてくれよ」
岸部は聞こえないだろうと思いながらも、真希の背中に向って呟いた。
「今日で五位と四ゲーム差に広がりましたが打開策はありますか?」
「……」
「デビット投手に今シーズン三敗目となりましたが、理由は何だとお考えですか?」
「……」
追い付いた真希が次々と質問を投げかけるが、野川は視線すら動かさず無言のまま歩き続けている。
真希と野川では、大人と子供程の身長差が有った。ショートボブの髪型の真希が野川に食い下がる姿は、後ろから見るとまるで中学生が監督にサインをねだっているように見える。
「藤王選手はこれで六試合ノーヒットですが、四番降格やスタメンを外す事は考えられていますか?」
真希の質問が藤王の事にふれると、ピタッと野川の足が止まる。
「あっ……」
質問していたくせに、野川が相手にしてくれるとは思っていなかった真希は驚いて立ち止まる。
「お前、記者やって何年だ?」
「に、二年で、野球担当は……」
怖い顔で睨む野川に、真希は怯んでしまう。
「お前二年も記者やってて、藤王がどれだけの選手か分からんのか! あいつはこの先十年チームを背負う男なんだ。調子が良い悪いで代えていい選手じゃねえんだよ!」
「は、はい……」
真希は野川の勢いに押されて通路の壁まで後ずさった。
萎縮して固まる真希を残して、野川はぶつぶつ呟きながら、また監督室に向って歩き出す。
――そうだ、藤王はチームを背負う四番にならないといけねえんだ。そう思うからこそ、時期尚早と周りに言われても四番に据えて来た。だが、その期待が裏目に出たのかそれ以降伸び悩んでいる。
――あの記者の言う通り、一度四番を外す事も考えないといかんのか……。
――代わりにカンフル剤としてあいつを使うべきか………。
――いや駄目だ。それはチームの為にもあいつの為にも良くはない。今年は我慢すべきなんだ。
野川はチームや藤王の状態の悪さから、信念が揺らぎ始めていた。
「なにっ!」
野川の大声が質素な監督室に響いた。
「冗談じゃねえよ、社長!」
「声が大きいがな、監督」
野川と球団社長の巽(たつみ)は応接セットのテーブルを挟んで向かい合っていた。興奮して立ち上がる野川を巽が両手でなだめている。
「オーナーもお怒りなんや……今年優勝出来へんかったら球団を売る! 客も呼べん弱いチームはいらん、言うてな……」
巽は困り果てた表情で野川に事情を説明する。だが、巽がどんなに言い訳しても、優勝が条件なら今の順位からすると事実上の売却宣言であった。
「嘘だろタイマーズが売られるなんて……」
野川は困惑した表情でソファにドスンと座り込む。巽の言葉がすぐには信じられなかった。
何十年も自分を支え育ててくれたタイマーズは、野川にとって人生の全てと言えた。そのチームが無くなるのは自分の存在さえも否定されるような耐え難い事だった。
「時代の流れかな……わしらの若い頃は弱くても球団を売ろうなんて考えられへんかったのに……」
もう諦めたかのように話す巽の言葉も、野川には届いていない。ただ、絶望感だけが野川の心を覆っていた。
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