皇帝ジェイド・ノヴィリスの事情[6]


「ただ、動機は……なんでしょう?」

 ジェイドは驚いてユーリの顔をまじまじと凝視した。

 幼い顔(かんばせ)は、目を伏せてじっと考え込んでいる。


 ――それは、ジェイドも同じく疑問に思っていた。


 夫妻が罪を認めたというのなら、確かに彼らが犯人で間違いないはずだが、そもそも二人はなぜ吟遊詩人などを手に掛けたというのか?

 ジェイドの疑念に、グレイスは書類を捌きながら軽く答えたものだった。

「流浪人ならたとえ不審死したとて、身内もおらず、本来ならろくに捜査もされないはずだったからでは?」

「足がつきにくいから、と」

「ええ」

「ケイマンたち警邏隊の調べでは、死体の部屋からは荷物がなくなっていたらしい。物取り目的って見立てだそうだ」

 アレクセイの補足に、ジェイドはますます首を傾げた。

「その日暮らしの吟遊詩人が、高級宿の店主が欲しがるような金品を持っているものか?」

「それは……」

「確かに……」

 しかし、とグレイスは執務室の壁にかかった絵画の一つを指さしてみせた。

「貴族の屋敷に招かれるような吟遊詩人ならば、褒美に特別な品を渡されるというようなこともあると聞きますし、そういう金品を狙われたのでは?」

 壁に飾られた夜空に祈りを捧げる乙女の絵画は、元は月に腰掛け地上を見守る男神の絵画と一対の作品だった。

 グレイスの言う通り、ジェイドの祖父の代に流浪の踊り子に褒賞として贈ったのだという。

「ありうるな。これからの尋問で明らかになるだろう」

「……そうだな」

 ジェイドも釈然としないまでも、納得したのだった。

 ――その時は。


 ユーリは考えを吟味するかのように、訥々と続けた。

「くだんの吟遊詩人は、宿の宿泊客ともはたらいている関係者ともとくにかかわりがあるわけでもなく、劇団に所属しているわけでもなかったそうですね」

「それが?」

「なぜ、かれはその宿にとまったのでしょうか?」

 ジェイドは片眉を上げた。

「ゼンにききました。そこは高級な宿で、ふつう流浪の吟遊詩人は酒場で夜をあかすか、どこかの劇団に一時的にうけいれてもらうか、もっと安い宿にとまるものだと」

 ユーリの澄んだ目が、真っ直ぐにジェイドを見た。

「不自然ではないですか?」

 

 何故、吟遊詩人はわざわざ高級な宿に泊まり、殺されるに至ったのか。


「それに、隠蔽をこころみるにしても、あまりにもお粗末ではありませんか?」

 ――密かに、ジェイドは感嘆の吐息をついた。

 何食わぬ顔で韜晦してみせる。

「案外、何か些細な事で揉めた弾みに殺害して焦った……という程度かもしれないな。取り調べが進めばはっきりするだろう」

「そうで、しょうか……」

 うと、と螺子が切れてしまったように、小さな体が眠気に揺れる。

 そこで初めて、ジェイドは唇の端に微笑を上らせた。

 ぐらぐらと重心の覚束ない頭をそっと支え、必死で開こうとしているらしい瞼を掌で覆ってやる。

 睫毛が肌をくすぐって、余計に笑みが深まった。

「……星の降る、良い夢を」

 花びらのような唇が何事か呟いて、幼い側妃は夢の国へと駆けて行ったようだった。

「……陛下」

「ああ、エレナ。遅くにすまなかったな」

「いいえ」

 エレナももう寝付く間際だったのだろう、いつも綺麗に一つに纏めている柔らかな茶髪を解いて、夜着の上に羽織った簡易な上着の背に流している。

 優秀な侍女はしとやかに淑女の礼(カーテシー)を取った後、意味ありげに微笑んだ。

「いかがです、殿下は?」

「まだ帝国の公用語も完全に読み書きできないとのことだったが……」

「ええ」

「優秀ぶりは申し分ないようだな」

 エレナは満足げに頷いた。

「ご報告申し上げた通り、学習に関しては特別に習得が早いというわけではございませんが、とにかく発想や思考……理論が大人びていらっしゃって……不思議な御方です」

「そのようだな」

 帝国に嫁いできてからこっち、ユーリ・グレース・ノルディアはつくづくとジェイドの予想を上回ってくる。

 色々な意味で、と注釈がつくが。

 エレナが寝室のドアをぴたりと閉じ、気遣わしげに目を伏せた。

「……陛下、宿屋の夫妻の件、ユーリ殿下には……」

「言う必要はない」

「……」

 エレナは深々と頭を下げてジェイドに了承の意を示したが、そこには迷いが見て取れた。

「確かに、王女は年齢の割には聡いようだが……関係者というわけでもないのだ、わざわざ知らせずともよいだろう」

 ユーリの眠気で薄くほてった頬が思い起こされ、ジェイドは微笑んだ。

「グレイスが、子供の寝顔に癒されると言っていたが、確かに、その通りであった。――王女はまだ幼い。穏やかで、健やかであればよい」

 よいな、と重ねたジェイドに、エレナも得心したのか微笑んだ。

「はい、陛下」

「君も休め」

「ありがとうございます。御前を失礼いたします」

 エレナに見送られ、ユーリ王女の宮を出たところで、ジェイドの顔から表情が消えた。

 冴え冴えとした月明りに照らされて、怜悧な横顔が宵闇に白く浮かんだ。


 ――陽沈み、月が東の空に上り始める直前、宿屋の夫妻は獄中で死んだ。


 アレクセイによると、まだ調査段階ではあるが、自死である可能性は低いという。

(他殺……誰が、何のために?)

 吟遊詩人を殺した犯人夫妻が、誰かに殺された。

 その理由は明らかに、吟遊詩人殺しにあるのだろう――とはいえ、真相を知る手掛かりは永遠に口を開かない。

 疑問は尽きないが、ジェイドにとってこの事件はここまでだ。

 調査に首を突っ込む程の興味も情熱も無いし、その暇も無い。

 ジェイドの思考は、馬を走らせて一月程かかる遠く離れた街を悩ませる洪水対策の施策に飛んだ。

 雨期が近い。

 夏を前に、風は冷たく、夜気は僅かに湿っていた。

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