皇帝ジェイド・ノヴィリスの事情[5]
しまった。
起こしてしまったか。
さりとて、ここで引き返しては余計に彼女との関係に溝が入りかねない。
「夜分にすまないな」
ジェイドは覚悟を決めて、寝台の横に立った。
途端、幼い側妃は平伏してしまう。
思わず、ジェイドの眉根に深い皺が寄った。
よく勘違いされるのだが、怒っているのではなく、困っているのだ。
助けを求めて振り返った先、エレナがそっと首を振っている。手を口元に添え、無声で、
『何かお声をかけてさしあげてくださいませ』
――何かとは……何を?
考えあぐねるジェイドに、エレナは頭を抱え、次いで急いで椅子を運んできた。
座れということらしい。
(そういえば、目線を低くして合わせてやるのがいいんだったか?)
子供の頃、兄に聞いた、小さな生き物を怖がらせないコツを思い出した。
ユーリ・グレース・ノルディアは、その幼い体には有り余る巨大な寝台の上で、震えながら蹲っていた。
苛めているような気分になり、ジェイドはエレナに急かされるまま、椅子に腰を降ろす。
「顔を上げよ」
小さな灯りが幼い面を照らす。
ひとまず、視線を合わせることには成功したが。
高山にある小国から嫁いできた年端もいかぬ姫の瞳は、いつだったか遠征で訪れた南の空のように、宵闇の中でも青く澄んでいる。
薄く柔らかなネグリジェは装飾こそ少ないものの、レースは繊細で、生地は上質な木綿のようだ。身の回りを世話する侍女や女官達には、ちゃんと大事にされているらしい。
初めて顔を合わせてから一月程経つが、頬の線がややふっくらしたような気がする。
このノヴィリス帝国で健やかに過ごせているようで、ジェイドは安堵した。
(……確かに、直接会わねば分からないこともあるな)
輝く金の髪を跳ねさせ、大きな青い瞳をきょろきょろさせながら、いまだ頬のまろい小さな姫君が城中を探検する様子は、確かに大人の庇護欲と微笑ましさを誘うだろう。
それも、遠い異国から単身送られた事情を知れば、なおさらに。
とはいえ、この気まずい雰囲気をどうすればよいのか。
ユーリの長い金色の睫毛に縁どられた目には、多大な困惑が浮かんでいる。
とりあえず顔は見たことだし、もういいのではないだろうか……ジェイドが消極的にそう思い始めた頃、エレナが茶道具を載せたワゴンを運んできた。
彼女はジェイドと目が合うと、やんわりと微笑んでみせる。
――アレクセイよりも先に、ジェイドにユーリとの交流を進言してきたのが、彼女だったか。
子供と接したことのないジェイドは、どう会話すればいいかすら分からないからと断ったのだった。
その時は、分を弁えている侍女は引き下がったが、こうも言っていた。
『難しくお考えにならずとも、その時思ったこと、何でもないようなことだけでも十分お話しはできるはずですわ』
なるほど?
「そなた……」
言いさして、これでは威圧感を与えてしまうかと、
「お前は寝るのが早いのだな」
とりあえず、感想を口にしてはみたのだが、これで正解なのだろうか。
ユーリの一日の予定を把握しているので、早いも遅いもないのだが……ジェイドが子供の頃は、この時間はまだ授業や公務が残っていたものだ。
すると、おずおずとユーリは唇を開いた。
「そ、そうでしょうか?」
密かにジェイドは吐息をついた。
――素直で、心根の優しい子供なのだろう。
ジェイドを見上げてくる小さな体は硬く強張っていて、緊張が解けていないことが見て取れる。
にも関わらず、一生懸命ジェイドと会話しようとしていた。
それは純粋な子供らしい好奇心からというよりも、大人びた気遣いからのように感じる。
(確かに、興味深い)
アレクセイが構いたがる理由も分かる気がした。
兄の名を出せば、ユーリの表情が僅かに綻ぶ。
ユーリの方も、アレクセイのことを慕っていることが見て取れた。
「昼間、面白い推理をしたようだな」
「その、推理というほどのものでは……」
「宿屋の亭主と女将が捕まったそうだ」
「――やっぱり、その二人が犯人だったのですね」
ユーリは得心したと言いたげに頷いた。
怯えの残っていた瞳が、きらりと好奇心に光る。
アレクセイはユーリの提案通り、宿屋の夫婦を取り調べた――厳しく、犯人である前提で。
そうすると、彼らの証言に次々と矛盾が生じた。
宿屋の主人は父親から宿を継いだ二代目とのことで、元々商売人にしてはあまり頭が切れる方でも口が回る方でもなかったのが、また災いしたようだ。
赤獅子隊の方には、幸いなことだったが。
反対に女将は気が強く最後まで抵抗したようだが、主人が自白したことによって共犯であることが自動的に発覚した。
(だが……いや、それは今はいい)
考えに沈みそうになったジェイドは、瞬き一つで気分を切り替えた。
今、言及するよりも、目的はユーリとの交流だ。
「なぜ分かった?」
「わかっていたわけではなく……たんに消去法です」
なるほど。
可能性を潰していけば、自ずと犯人に辿り着く。
ユーリは恥ずかしそうに頷いた。
随分と大人びた思考と仕草だった。
この歳――七歳にしては、不自然な程。
手柄を誇ってもいいだろうに。
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