皇帝ジェイド・ノヴィリスの事情[3]


 ◇  ◇  ◇

 

 そういうわけで、ジェイド・ノヴィリスには、現時点で三人の妻がいる。


 大陸一の帝国の皇帝の現在の主な仕事は、戦後処理である。

 何を考えていたのか、父王が始めた戦争はノヴィリスを取り囲む周辺諸国のおおよそ全てに及んだ。

 ノヴィリス帝国は大陸のやや中央付近に位置する。

 その四方八方全てを敵に回した。

 まともな精神であれば、考えられない所業である。

 ジェイドが玉座を継いだ時には、最早、和平への道は閉ざされ、帝国を守るには戦に完全勝利する意外なくなっていたのだ。

 とにかく、戦い、捻じ伏せ、或いは滅ぼす日々だった。

 血で血を洗う地獄を抜けても、厳密に言えば戦は未だ終わっていない。

 属領とした国の処遇――独立を認めるとして、どこまで、どうするか、何者に任せるのか。

 破壊された大陸公路の修復と難民問題。

「唯一の救いは、放りっぱなしだった内政が安定していることだな」

「おや、お褒めの言葉ありがたく」

 白いものが混じり始めた髪を端正に整え、紳士然とした微笑を深めたのは、宰相のグレイス・ライルだ。

 細いフレームの丸眼鏡の奥で、息子のレイル・ライルと同じ灰色の瞳が茶目っ気を含んで歳若い皇帝を映した。

「ピョードルの件だが……」

「軍を解体するのは良い案ではありませんね」

「しかし陳情が上がっているのは確かだ」

 現地に誰かしら、こちらが信用できる第三者を送り込むしかないだろう。

 判断材料が少なすぎる。

「ジャファーに行かせる」

「妥当でしょう」

 ジェイドとグレイスは頷き合うと、積み上がった書類の塔の一枚を未決から保留へ移動させた。

 国境を越えた現地調査になると、また更に一月以上の時間がかかるだろう。

 中々、思うようには進まないものだ。

「急いても良いことはありませんよ」

 グレイスは宥めるように言った。

「遅々としていても、積み上げていった末に、国があるものです」

「含蓄のある言葉だな」

 ふふ、とグレイスは微笑んだ。

 休憩しましょう、とグレイスの合図で補佐官と入れ替わりに侍従が入室し、同時に、アレクセイがひょっこり顔を覗かせる。

 ジェイドは緑の瞳を和ませた。

「兄上」

「よう、ちょうど頃合いかと思ってな」

 差し入れ、とアレクセイは皿に盛ったクッキーを片手で持ち上げる。

 湖畔で水鳥が羽を休める精緻な模様のクッキーはライル家伝統の料理で、ジェイドが幼い時分から親しんだ夫人の得意菓子でもある。

 見た目の優美さを裏切らない、洗練された味わいの焼き菓子は、アレクセイの好物でもあった。

「家内の手製だというのに、家でなく外での方が口にする機会が多いとは」

 グレイスは肩を竦めた。

 アレクセイが笑う。

「今回は夫人から俺への賄賂ってとこですかね」

「賄賂ですと?」

「どうも、一人息子の嫁さん探しですよ」

 ああ、とジェイドは頷いた。

「そういえば、またレイルは見合い相手を振ったとか?」

「そのようです」

 グレイスは苦笑した。

「そろそろ相手を見繕おうにもネタが尽きてきたようで、こうなったら武家筋でも……というのがうちのの思惑のようで」

「困ったものだな」

「それで、うちの同僚の妹でも親戚でもいいから、一席設けてくれと頼まれましてね」

 レイル・ライルは家門の血筋は勿論、地位、権力、能力、どれを取っても紛れもなく、いわゆる優良物件である。

 加えて、彼の理知的な灰色の瞳は常に微笑み、柔らかな亜麻色の長髪はことさら柔和な印象を与えるようだ。

 腹がいくら黒かろうが、そんなことはお構いなしに、微笑を湛える麗人に見合いが殺到していたようだが、どうやら当人にはまるでその気がないらしい。

「奴はもう三十を超えただろう。落ち着く気はないのか?」

「落ち着くと言ったって遊んでいるわけでもないようだし。閣下、奴には意中の相手でもいるのでは?」

「さあ……どうでしょうねぇ」

 皇家の兄弟がそろって首を傾げるのに、グレイスは苦笑するしかないようだ。

 ふむ、とジェイドは頬杖を付く。

「グレイスは息子の結婚を急かすつもりはないのだな」

 他人の嫁取り事情は興味深い。

 何しろ、ジェイドは自身の意思が芽生えるより前段階の幼少期から婚約者候補が量産されていたし、現時点で三人いる側妃達は感情の好悪は関係なしに娶ったような立場だ。

 ライル家の嫁とり事情として、夫人とは反対に、父親のグレイスは息子の結婚にあまり興味がないようにも見える。

「そうですね……うちのは結婚させようと躍起になっているようですが、あ奴に無理に相手をあてがったところでどうせ上手くはいかんでしょう。生涯を共にするような伴侶なんてものは、人生のどこかで否応なしに出会うものです」

「それは持論かい?」

 アレクセイが、ライル夫人手製のクッキーを一枚取り上げて振って見せた。

 グレイス・ライルは微笑むのみだ。

 なるほど、自身の思惑関係なく出会うものであると。

「レイルは嫌がりそうだな」

「でしょうね」

 困ったものです、とグレイスはむしろおかしそうに頷いた。

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