皇帝ジェイド・ノヴィリスの事情[1]
かつて、ノヴィリス帝国皇太子、ジェイド・ノヴィリスには異母兄が一人、親と呼べる人間が三人ほどいた。
父である皇帝は遠い存在でしかなく、直接言葉を交わすことさえ稀だった。
正妃である実母とは上手くいかず――おそらく幼い自分が兄の母、側妃にばかり懐いたのが原因でもあるだろう。
ジェイドの理想の母親像は彼の側妃である。
兄は尊敬している。
強く、明るく、精神的にも健康的な強靭さを兼ね備えた男で、ジェイドが物心付いた時から実母の目を盗んでは何くれと気遣ってくれたものだった。
十九の歳に、ジェイドは皇帝の座を継いだ。
父が病死したのだ。
兆候はあったが、いささか突然の事ではあった。
悲嘆に暮れる暇も、感傷に浸る余裕もなかったが。
戦の最中であったからだ。
それから三年足らず、名実ともにノヴィリス帝国皇帝となった二十二歳のジェイドには、異母兄が一人、実母が一人、実の母のような女性が一人、妻が二人いる。
皇帝になってから帝国の死力を尽くして戦争を終わらせる間、実母が蟄居したり、娶った最初の妻が死んだり、やっと終戦したかと思えば二人も側室を取るはめになったりと、怒涛の三年であった。
しかも、最近では、側室がもう一人増える予定である。
「……伝令?」
早馬か?
ジェイドは手にしていた書類を侍従に預けながら、眉を寄せた。
一応は護衛の名目で同室している異母兄のアレクセイも首を傾げる。
「ん、もうノルディアのお姫様が到着したのか?」
「そんなわけはないだろう。早すぎる」
予定していた行程では、昨日かそこらにこちらの迎えが彼のノルディア王国に着いた頃だろう。
「それがですね……」
と、知らせを持ってきた、主席補佐官であるレイル・ライルは渋い顔をして眉間を揉んだ。
「えー……ノルディアの王女殿下は、迎えの馬車に乗って現在移動中です」
では事故か何かだろうか。
何か問題でも?と兄弟そろって不可解な顔をするジェイド達に、
「その、うちに輿入れされる王女殿下ですが、報告によると……第二王女殿下であるとのことです」
第二?
思わず、口が開く。
「待て。第一王女ではなく?」
予定では、十六歳の第一王女ノーラ・シーザーが来るはずではなかったか。
「まあ、その、確認したところ、厳密にはノルディアの王女、という条件になっておりましたが。……どうぞ」
レイルから、封をされた書簡を渡される。
「ノルディア王国の王太子、エーリ・クライヴ・ノルディアからの手紙です」
「……嫌な予感がする」
「まぁまぁまぁ」
書簡を摘まんで遠ざけるジェイドに、アレクセイがペーパーナイフを差し出した。
渋々受け取って、封を切る。
「…………」
執務室に、暫しの沈黙が降りた。
――全文を読み終えたジェイドは、思わず天を仰いだ。
大きな窓から差す日光に埃がきらめいている。
気分はその真逆だが。
「なんて?」
ジェイドは嘆息した。
「――結論から言うと、うちに嫁いでくるのはノルディアの末の妹姫、ユーリ・グレース・ノルディアだ」
「末の……」
「妹姫様、ですか」
レイルの頬が引き攣った。
「なんだ、末でも何でも王女なんだろう?」
事態がよく分かっていないアレクセイに、レイルは頷いた。
「そうです。しかも、ユーリ王女殿下はノルディア王国正妃陛下の唯一の御子でございますから、本来であれば王位継承権は一位の御方です」
現在の一位は、第一王子エーリ・クライヴ・ノルディアだ。
「まあ、そうでなくとも、現時点で二番目の位置にいらっしゃいますが」
「へえ」
ん?とアレクセイが首を傾げた。
「じゃあ、逆に来るはずだったノーラ・シーザー王女は序列で言えば……」
「ノーラ王女に王位継承権はない」
ジェイドは首を振った。
そも、ノーラの母親は正妃でも側妃でもなく、単なるノルディア王の愛人の一人だ。
王の娘であることは事実なので母親と共に後宮で暮らし、第一王女と認知されてはいるが、正統な血筋ではないため、ノルディアを名乗ることはできない。
また、王太子エーリの母はその昔亡くなった側妃であるようだ。
側妃の産んだ唯一の男児と、随分遅くに生まれた正妃の娘。
ノルディア王国の法に則るならば、本来は王位継承位の序列が高い方は娘であるはずだが。
「その辺りは、色々あるようだな」
ジェイドは王子からの手紙を指で弾いた。
「……てことは、つまり、ノーラ王女よりも今こっちに向かってるユーリ王女の方が正統性が高いんだろ。いいじゃないか、別に」
むしろ実質的な人質として嫁がせるのならば、ノルディア王国はノヴィリス帝国に対して厚い誠意を見せたことになる。
ジェイドは、レイルと顔を見合わせた。
「兄上」
「うん?」
「ノルディア王国の末姫は、いま、七歳だ」
笑顔のアレクセイが硬直した。
「……は? ななさい?」
重々しく、レイルは首肯した。
ジェイドからは、最早、深々と重い溜め息しか出ない。
「えッ、ジェイドお前、七歳の女の子の夫になるのか⁉」
「逆では⁉」
「同じことだろ⁉」
言い合う二人を横目に、ジェイドは頭痛のする額を抑えた。
「陛下、ユーリ王女殿下をお迎えになるのですか……?」
仕方あるまい。
「締結した約定では、王女というだけで個人までは定めていなかった」
「それにしたってだろ。当然、年頃の方を寄越すだろうがよ、普通は。まともなら。常識的に」
いい度胸だな、ノルディア王国。
帝国を舐めてるのか? との言に、ジェイドは苦笑した。
「どちらかというと、頼られたようだな」
ひらり、エーリからの手紙を振る。
「エーリ王子からはなんて?」
ジェイドは几帳面に綴られた文字に目を落とす。
謝罪から始まる文面は、いかにも生真面目な人柄が垣間見えた。
「くれぐれも、末姫をよろしくお願い申し上げると……実家は頼りにならないから、というところのようだ」
「ほう?」
とにかく、やるべき事はやっておかなくては。
「第三側妃を迎えるための準備は一旦中止、変更だ。レイル、侍女長とお前の父を呼べ」
「かしこまりました。宰相閣下はただ今ダールの使者と会談しておりますので、調整致します」
「侍女長には手間をかけることになるな」
十六歳の少女に合わせて用意をさせていた衣装や家具、教育や予定に至るまで、全て七歳の子供向けのものへ見直さなければならないだろう。
「警備面も練り直すか」
「ああ、頼む」
「というかだな、ジェイド……」
ちらり、アレクセイは気まずそうに顎を撫で、執務を再開させるジェイドを見やった。
「お前、子供に全く接点も免疫もないだろう」
大丈夫か?
――そんなの、全然大丈夫じゃないに決まっている。
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