番外編2.ブリジットのバレンタイン (コミック1巻発売記念)



「明日はバレンタインですよ、ブリジット様!」


 底冷えのする冬の日のこと。

 放課後、ブリジットが教科書類を片づけていると、そんなことを言いながらキーラが近づいてきた。


「ああ、そうだったわね。バレンタインね」


 そういえばもうそんな時期だったかと、ブリジットは納得する。

 この季節になると、教室中がどこか浮ついた空気になる。庶民に昔から伝わる風習――好き合う男女がプレゼントを贈り合うバレンタインは、年頃の男女が多い学院では、大きなイベントのひとつなのだ。


(女性からは甘いお菓子を。男性からはハンカチや花束、メッセージカードなんかを気になる相手に渡すのよね)


 だがキーラは、軽く相槌を返したブリジットを前になぜだか小さく震える。


「どうされたんですかブリジット様。びっくりするくらい落ち着かれてて……ブリジット様らしくありません!」

「それだとまるで、いつもわたくしに落ち着きがないみたいじゃないの」


 じっとりとした目で睨みつけるが、キーラは怯まない。


「だってブリジット様。オーレアリス様は、期待しているのではないでしょうか」


 ブリジットは訝しげに眉を寄せる。

 なぜここで急に、ユーリの名前が出てくるのか。


「……ユーリ様が? 何を?」

「それはもちろん――ブリジット様から手作りお菓子をもらうことを!」

「――えっ!?」


 びっくりしたブリジットは立ち上がった。

 がたりと椅子が鳴って大きな注目を集めるが、ブリジットはそれどころではない。


(ユ、ユーリ様が? わたくしのお菓子を?)


 胸がどくどくと高鳴っている。

 ブリジットは髪をわざとらしくかき上げて、キーラをちらりと見やった。


「そ、そうかしら? ユーリ様が何か言っていたの?」

「いえ、特に何も」


 この返しにはがくりと来てしまう。


「でも、オーレアリス様は無類の甘いもの好きです。そして彼は絶望的にモテません。誰にもお菓子をもらえず嘆き悲しむオーレアリス様を救えるのは、ブリジット様だけではないでしょうか」


 キーラの発言に、ブリジットははっとした。


(そ、そうだわ。ユーリ様は――あんまりモテない!)


 いや、モテないというわけでは決してないだろうが、彼は他人に対してとにかく冷たい。

 婚約者のいないユーリに近づこうとする令嬢は星の数ほどいたのだが、今までユーリはそれらことごとくを冷酷なまでに斥けてきた。彼に泣かされた女生徒だけで夜空にはいくつも星座が作れるだろう、というほどに。


 そんな状況が続いている中、バレンタインに彼に贈り物をしようとする猛者などいるはずもない。


 つまり、


(ユーリ様は、誰からもお菓子をもらえないんだわ!)


 それならば――そうだ。

 ブリジットが彼の知人として慈悲を施すのは、何もおかしなことではないのだ。

 むしろ人助けの一環である。甘いものが好物のユーリはさぞ喜ぶことだろう。


 そう思えばどんどん気持ちが昂ぶってきて、ブリジットは扇子を手におほほと高笑いをする。


「そ、そうかしら。そういうことなら、そうね……うん、わたくし、お菓子を用意してさしあげようかしら」

「お優しいです、ブリジット様!」


 うまく乗せられていることに気がつかず、ブリジットは満足そうに頷く。

 それからブリジットはきょろきょろと周囲を見回し、その姿がないのを確認してからキーラの耳元で囁いた。


「キーラさんはニバル級長に贈るの?」

「級長……もそうですね、そうですが、いうなれば彼は実験台です」


(実験台?)


 何やらバレンタインに似合わない不穏な単語が聞こえてきた。

 キーラは両手を組み、うっとりと頬を染めて天井を見上げている。


「わたし、ブリジット様に最高のチョコレートをお作りしたいんです! 一生忘れられないような、度肝を抜かれるほどの作品を作り上げたい! そのためならどんな犠牲も厭わず全力を尽くすつもりです!」

「そ、そうなのね。ありがとう……」


 およそチョコ作りらしからぬ発言の数々だったが、とりあえずブリジットはお礼を言っておいたのだった。



        ◇◇◇



「シエンナ、今日はチョコレートを作るわ!」


 学院から戻ってくるなりそんなことをブリジットが言い出したので、コートと鞄とを受け取っていたシエンナは小首を傾げた。


「チョコレート、ですか」


 ふむ、と考える表情をしたシエンナは、すぐに気がついたらしい。


「ああ、バレンタインだからですね。オーレアリス令息に差し上げるのですか?」

「ええ、そのつもりよ」

「手作りチョコレートを?」

「そう!」

「お嬢様、チョコレートを作ったことなんてありませんよね?」


 勢いに乗っていたブリジットはそこでぴたりと押し黙る。


 無論、菓子を作った経験などブリジットにはない――ないのだが、なんとなく、ユーリには手作りのものを贈りたいと思っていたのだ。


(ユーリ様はきっと、高級な菓子店で買ったもののほうが喜ぶでしょうけど……)


 少し落ち込みそうになったブリジットだが、なんとか続ける。


「ないけど、その……えっと、そうだわ! カーシンに習うのはどうかしら?」

「……カーシンに、ですか」


 名案だわ、とブリジットは思う。

 カーシンは別邸専属のパティシエだ。その優れた腕前についてはよく分かっている。ブリジットがお願いすれば、きっと初心者にも分かりやすいレシピを教えてくれることだろう。


 だが、なぜかシエンナの表情は硬い。


「あれがあまりにも可哀想なので、それはやめておいたほうがいいかと」

「? どうしてカーシンが可哀想なの?」


 シエンナの言葉の意味が分からず、ブリジットは首を傾げる。

 だが詳しく解説してくれることはなく、シエンナは胸に手を当てた。


「ブリジットお嬢様、今回は私にお任せいただけないでしょうか」


 シエンナも決して料理ができないわけではない。何事もそつなくこなす侍女である。

 頼もしい彼女に、ブリジットは「分かったわ」と頷いた。シエンナに教われば、きっと素敵なチョコを作れるはずだ。


「ちなみにお嬢様は、どんなチョコを作りたいのですか?」

「よく聞いてくれたわ!」


 ブリジットはシエンナを連れて私室に向かうと、本棚に無造作に入れてあったそれを取り出した。


「これは前にもらった王都の菓子店のカタログよ。そう、これこれ、こんな感じで上品で高級感があって、見た目も美しいチョコレートを作りたくて――」

「お嬢様」


 カタログを指し示しながらうきうきしてきたブリジットの肩に、優しくシエンナが手を添える。


「お嬢様はお菓子作りの初心者です。店で売られているようなチョコを作るのは、残念ながら困難かと」

「でもね、こっちのチョコレートなんて宇宙を感じさせるような神秘的で鮮やかな見た目が素敵なのよ。これならユーリ様もきっとびっくり」

「今からチョコレートを買ってきましょう。それを溶かして冷やして固める。これが最善手かと思われます」


 まったく聞く耳持たないシエンナである。

 ブリジットは唇を尖らせた。


「そんなの簡単すぎるじゃない。ねぇシエンナ? やっぱりカーシンに習ったほうが――」

「私はお嬢様を、人の心が分からない鬼畜に育てたつもりはありません」

「そ、そこまで言うっ!?」


 最終的にブリジットは折れる形となった。そもそも、調理の右も左も分からない初心者が上級者に逆らえるはずがなかったのである。



        ◇◇◇



 翌日のこと。

 無事チョコ作りを完了させたブリジットは、目の下に小さなクマを作って、ふらふらとひとりで廊下を歩いていた。


 彼女の後ろ手には、小さな赤い紙袋がある。言わずもがなその中身は、バレンタインのために用意した手作りチョコのわけだが。


(ど、どうしよう……)


 今日は朝から、否、昨夜からドキドキしてほとんど眠れなかったブリジットだ。

 そのおかげで、授業にも集中できずじまいだった。教師からも注意されて散々である。


(私、これ、本当にユーリ様に渡せるの?)


 まだ本人が目の前にいないというのに、こんなにも胸がバクバクと騒いで、悶えるくらい恥ずかしい。

 というのもキーラが言っていたように、バレンタインでは友人に贈り物を渡すのも珍しいことではない。ブリジットだってそう言い張って、ユーリに渡すつもりだったのだから。


 しかし今もそこかしこで、教師の目を盗んだ逢瀬の気配が漂っている。赤い顔をした女生徒は紙袋や小箱を手にしていて、男子生徒もうろちょろしている。


(しかも、て、手作りだし……)


 これでは少なからず、ブリジットからユーリに向く好意があるのだと宣言するも同然だ。


 もしかしたらユーリも変な勘違いするかもしれない。

 ブリジットがユーリのことを、本気で――。


(だ、だめだわっ。これ以上考えたら、熱が出そう……!)


 ブリジットはブンブンブンと首を横に振りたくる。

 とっくに額も頬も熱く、全身は茹だるようだったのだが、ブリジットは気合いを入れるようにぶつぶつと呟いた。


「お、落ち着いて。深呼吸よ深呼吸。やればできる。わたくしは、やればできるんだから……!」


 熱い息を吐きながら、ブリジットはいつもの道を突き進む。

 図書館横にある、人気のない裏道。人がいないといえばまさしく穴場だが、ここは誰にも知られていないので、人の気配はしていない。


 果たして四阿に、いつものようにユーリはいた。寒空の下、コートを着込んでいる。

 見慣れた風になびく青髪すら、今日は刺激が強い。ブリジットはごくりと唾を呑み込んだ。


(い、いつも通り、なんでもないように挨拶すればいいの!)


 そう言い聞かせている時点で、いつも通りとはほど遠いわけだったが、ブリジットは勇気を振り絞って口を開いた。


「ユーリ様、ごきげ――」


 だがその続きを、ブリジットは口にできなかった。

 衝撃のあまり硬直して、目の前の光景を呆然と見つめる。


「…………ユーリ様」


 なんだ、と言いたげに見返してくるユーリ。

 その口元が、もぐもぐと動いている。何かを休まず咀嚼している。


 否、その正体についてなど、考えるまでもなく分かっている。


(ユーリ様がチョコ、食べてる……)


 鼻腔をくすぐる甘い香り。

 彼が手にしている小さな箱。その中身。手作りではないようだが、それはどう見てもチョコレートだった。


「あの、そちらは、どちらのご令嬢からお受け取りになったものでしょう……?」


 ブリジットは蒼白な顔色で、悲壮感たっぷりにそう問うた。


 自分で訊ねておいてなんだが、ユーリの答えを聞きたくない。

 このまま逃げ出してしまいたい。そんな風に震えて立ち尽くすブリジットにお構いなしに、ユーリは咀嚼を続けている。


 ようやく口の中のチョコを食べ終えると、ユーリは口を開けた。


「自分で買ったものだ」

「……えっ?」


 その答えは、ブリジットの想像とはまるきり違っていた。

 ふん、とユーリは鼻を鳴らし、手の中の小箱を見やる。


「なぜか知らないが、今日は学院中やたらと甘いにおいがするからな。先ほど購買に行って買ってきた」


(なぁんだ……)


 ブリジットは胸を撫で下ろした。

 心底、安堵していた。ユーリが、自分以外の誰かからチョコレートを受け取ったわけではないのだと。


(そうよ、そうよね。ユーリ様は甘いもの好きだから)


 安心すると、ブリジットは強気になっていた。

 隣の席に座り、隠し持っていた紙袋をテーブルの上に置く。どどんと置く。

 位置が悪かったので、指先で押し出すようにしてもうちょっとユーリ側に押す。


 あまりの挙動不審ぶりに、黄水晶シトリンの目がゆっくりと細められる。


「ブリジット、これはなんだ」

「チョ、チョチョコです」


(き、緊張しすぎて舌が回らないわ!?)


「……僕に?」

「そ、そういうことになりますかしら」


(可愛くない言い方!)


 もう、ブリジットは顔が上げられない。揃えた膝の上に両手を置いて、息を殺して深く俯いていることしか。


 ユーリは紙袋の中身に興味を抱いたらしい。

 慎重にラッピングした白い小箱を取り出し、リボンを解く。そのしゅるしゅるという音が、ブリジットの耳朶をくすぐる。


 数秒後に、箱が開かれた音がした。

 びくんとブリジットの肩が跳ねる。


「……手作り?」


 そんな独り言らしき声が聞こえたとたん、ブリジットは真っ赤な顔を上げてまくし立てていた。


「――――というかその、まっったく他意はありませんの! キーラさんがチョコを作ってみてはどうかとかおっしゃるからシエンナと作っただけで、そういえばユーリ様は甘いものがお好きだったような気がするかもと思い出しただけで、別に本当に何がどうということではありませんのでユーリ様もお気になさらず!」


 唾を飛ばす勢いで叫ぶブリジットにはお構いなしに、ユーリが小粒のチョコを指の間に掴む。

 トリュフチョコレートを、ホワイトチョコでデコレートした――不器用なブリジットが一生懸命に作ったそれを。


 なんだか急に泣きたいような気持ちになってきて、ブリジットはもじもじする。


「その、高級チョコに慣れ親しんだユーリ様の舌には合わないかもしれませんけれど……っ」


 一応、ブリジットが持ってきたのも高級チョコレートではある。正しくは高級チョコを溶かして固めた、手作りチョコなのだ。

 ユーリはその言い訳には特に何も反応せず、ぱくりとチョコを口の中に放り込んだ。


「……っ!」


 ブリジットは興味なさげにそっぽを向きつつも、実際は横目でじいいっと食い入るように、その様子を見つめていた。ほとんど祈るような気持ちだった。


 表情の読めないユーリの口の中から、チョコが砕かれる音がする。

 その数秒間は、ブリジットには永遠にも等しく感じられた。


 やがて。

 咀嚼を終えたユーリがぽつりと呟く。


「……おいしい」

「!」


 びっくりしたブリジットごと、彼女の座るソファは少し跳ねたのかもしれない。

 口元に拳を当てたブリジットは、上目遣いにユーリを見つめる。


「お、おいしいですか? ほ、ほ、本当に?」

「自分では食べていないのか?」


 もちろん味見はしているけれど、それでも不安だったのだ。

 だが、そんなことを答える心の余裕がない。するとユーリは何を勘違いしたのか、もう一粒のチョコをつまみ、ブリジットのほうに向けてきた。


 何事かと目を丸くするブリジットに、彼が言う。


「仕方ないな。ほら、口を開けろ」

「っ!? は――」


 動揺のあまり動けずにいるブリジットにしびれを切らしたのか、ユーリがチョコを掴むのとは反対の左手を伸ばしてくる。

 片手で顎を引き寄せられて、ブリジットの顔から火が噴きそうになった。


「えぁっ、ちょちょちょ、ユーリ様!?」

「……暴れるな。チョコを落としたらどうする」


(暴れずにいられないでしょ!?)


 だって、もう、目を回すブリジットの唇に、軽くユーリの人差し指が触れている。

 まだチョコを口に入れたわけでもないのに、ぞくりとするような甘さが全身に広がっていく気がする。


(これ、なんで、どうすれば……!)


 パニックになったまま、ブリジットはぎゅうと目蓋を閉じた。

 これ以上、近づいてくる端整な顔にも、触れる指先にも耐えられなかったのだ。


 閉じた目蓋の間に涙がにじむ。

 一瞬、目の前のユーリが息を呑んだような、そんな気がしたかと思えば――彼の気配は、遠ざかっていた。


 がりっ、とチョコを砕く大きな音に、ブリジットが恐る恐る目を開けると。


「だめだな。やっぱりもったいないから、ぜんぶ僕がもらう」


 なぜだかユーリが、手にしたチョコレートをもぐもぐと食べていた。


「~っな! なんですの、それは……!」


 からかわれたのだと知り、わざとらしくブリジットはまなじりをつり上げたけれど、ほっとしたのも事実だ。


 甘党なだけあり、ユーリは用意してきたチョコレートをきれいに食べ終えてしまう。空になった小箱をまた紙袋に戻すと、ユーリはしっかりとブリジットの目を見て言った。


「おいしかった。ありがとう」

「ど、どう、いたしまして……っ」


 しかしブリジットのほうは目を逸らしてしまう。

 存外素直なユーリ相手に、そう返すだけでブリジットは限界だったのである。


「お礼は期待しておいてくれ」

「別にそんなの、いいのに……」

「そういうわけにはいかないだろう」


 なんでもないように言うユーリの低い声音を聞きながら、ブリジットは赤い顔を長い髪の毛で隠す。


 革靴に包まれた足先は絡み合って、右に左にと小さく動いている。



(幸せすぎて、私……し、死んじゃうかも)



 ――その日、家に帰ったブリジットがベッドに転がり、悶えに悶えたことは言うまでもない。







-----------------------------




 ハッピーバレンタイン!ということで時系列完全スルーの番外編です。


 そして本日、アクアクコミック第1巻が発売となりました!

 迂回先生、おめでとうございます&ありがとうございます。迂回先生が描く可愛くて楽しいアクアクワールド、ぜひお楽しみいただけたらと思います!


(このSSは、Twitterで公開されていた迂回先生の発売カウントダウンイラストがあまりにも尊くて書いてみたものです。破壊力に悶絶しました、ぜひぜひそちらもご覧くださいませ!)

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る