第119話.告白

 


 ユーリの腕の中に、ブリジットは抱きすくめられていた。


「っ……!?」


 あまりの状況に、声にならない悲鳴を上げるブリジット。

 どうして? なんで? と訊きたいのに、ぱくぱくと開閉する口からうまく言葉が出てこない。


 そんなブリジットの後頭部を、ユーリが撫でる。


「とても、嬉しい。……ありがとう」

「!」

「死ぬまで大切にする」


 大袈裟だと笑うことはできなかった。

 それほど、ユーリの声には強い感情が篭められていたからだ。


(こんなに喜んでくれるなんて……)


 息苦しいくらい強く、逞しい身体に抱きしめられている。

 ブリジットが甘え上手の女の子だったら、きっとユーリの背中に腕を回すことができたのだろう。

 でも、ブリジットは持ち上げた手を、行き場なく下ろすことしかできなかった。


 だから胸がいっぱいになるほど、ユーリの香りを吸い込む。

 品の良い香水の匂いに、全身を包み込まれているような気持ちになる。


 ドキドキと安心が同居している、不思議な感覚。

 このままずっと――こうしていてほしいような、気がしてきて。


(だ……駄目よ私っ!)


 うっとりと目を閉じそうになる自分を、ブリジットは叱咤した。

 そうだ。今日の目的はもうひとつあるのだ。


 ユーリと踊りきること。

 ユーリにマフラーを贈って、驚いてもらうこと。

 そして最後に、いちばん大事なことがある。


「ユ、ユーリ様。あの……お願いが……」


 おずおずと伝えると、ユーリが身体を離した。

 やや不満げな顔つきに見えるような気もするが、ちゃんと聞いてくれるつもりらしい。


『負けたほうは、勝ったほうの言うことをなんでもひとつ聞く』。


 それが二人の勝負にたったひとつだけ課せられたルールだ。

 ブリジットは一歩だけそぅっと後ろに下がってから、口を開いた。


「……では、お願いを言います」

「ああ」

「今からお伝えする言葉を、どうか最後まで聞いてください。それがわたくしのお願いです」


 ユーリは拍子抜けしたようだった。


「お前の言うことなら、お願いされなくても全部聞くが」


 そんなことを真顔で言ってのけるものだから、ブリジットはまた真っ赤になってしまった。

 ブリジットが恥ずかしがっていると分かったのか、ユーリはそれ以上は食い下がらなかった。


「……まぁ、分かった。とにかく聞こう」

「は、はい。ありがとうございます」


 ブリジットは二度、深呼吸を繰り返した。

 大丈夫だ。ユーリは呆れたりしない。準備が整うまで、ちゃんと待っていてくれると知っている。

 不器用で分かりにくい彼の優しさを、ブリジットは誰よりも知っている。


「ユーリ様!」


 しまった。ちょっと緊張して声が大きすぎたかもしれない。

 こほこほと咳払いして、喉に触れて、どうにか音量を調節する。そんなブリジットのことを、ユーリは黙って見守ってくれている。


 大きく息を吸って、吐く。

 まっすぐ見据えると、ユーリの後ろに星空が広がっていた。


 ユーリに出逢うまで、ブリジットにはこの世界が闇に鎖された場所に思えていた。

 今は、それが違うと分かる。

 どんなに暗い夜も、ひとつの月と、数え切れないほどの星が瞬いて、静かに地上を照らしてくれている。


 そう教えてくれた人に、どうしても伝えたかったこと。

 精いっぱいの笑顔で伝えるそれは、感謝の言葉だった。



「あの日。……あの日、わたくしの手を握っていてくれてありがとう」



 目の前に居るユーリこそが。

 デアーグの折檻を受けるブリジットの右手を、掴んでいてくれた人だ。


 思い返せば図書館でも。

 ひとりぼっちのブリジットが本に伸ばした指先が、ユーリのそれと重なったのは偶然ではないのだろう。


 きっと彼は、ブリジットが彼の手を思い出すよりずっと前から――。


「ずっと守ってくれてありがとう、ユーリ様」


 返事はなかった。

 反応もなかった。ユーリはブリジットを凝視したまま、身動ぎのひとつもしなかった。


 ……うふふ、とブリジットは笑みを漏らした。

 なんだかとても照れくさい。同時に安堵していた。


「……良かった。最後まで、ちゃんと言えました……」

「……っ!」


 耐えかねたように、ユーリが片手で顔を覆った。

 項垂れたように肩を縮めている。歯を食いしばっているのか、荒い呼吸の音だけが断続的に聞こえた。


「ユーリ、様?」


 不安に思ったブリジットが呼びかけると、一際大きくユーリの身体が震えた。


「……ごめん。あのとき、ちゃんと聞こえていたのに」

「あのとき、って」

「声が聞こえていたのに、気がつかない振りをした」


 息を呑む。ユーリがいつのことを言っているのか分かったのだ。


 ジョセフの策略で物置部屋に閉じ込められたとき、ブリジットはユーリのことが好きだと言った。

 何も聞こえなかったとユーリは言った。でもそれは嘘だったのだと、彼は告白している。


に、嫌われたかった」


 俯いたユーリが、ぐしゃぐしゃと髪をかき回す。

 セットした髪が崩れるのもお構いなしに、彼は続けた。


「手を握ることしか。そんなことしかできない自分が悔しくて。情けなくて。……婚約者であった君を、守れなかった。弱い自分が……大嫌いだった」


(婚約者……)


 開きかけた口をとっさに噤む。

 今はユーリの言葉を、一言も漏らさず聞いていたかったのだ。


「ずっと嫌われないといけないと、思っていた。だからわざと冷たい態度を取って、嫌われようと。でも……知るたびに、惹かれた。もっと知りたくなった。もっと傍で君の笑う顔が見たいと、浅ましい願いを抱いてしまった……」


 顔は見えないまま。

 いつしかその声音が濡れているのを、ブリジットは感じ取っていた。


 そっと手を伸ばす。

 俯けていたままの顔に触れる。ユーリは驚いたようだったが、振り払ったりはしない。


 上目遣いで見上げると、潤んだ黄水晶シトリンと目が合った。


「ユーリ様。……泣いてるの?」

「幻滅しただろう」


 弱々しく、自嘲的にユーリが笑う。いつも自信に満ちあふれたユーリには似合わない表情。

 そんな珍しい姿に、ブリジットは顔を綻ばせた。


「いいえ。あなたのことをもっと知りたいのは、わたくしも同じですから」


 濡れた頬を指先で撫でる。溢れるきれいな涙を拭う。

 ユーリはしばらく、されるがままにしていたが……その片手が、いつしかブリジットの腰に回っていた。

 指先にぐっと力が篭められる。その瞬間、ブリジットの顔が一気に赤く染まった。


「ユ、ユーリ、様?」


 ブリジットの露わになった耳も首元も、上気している。

 ユーリのもう片方の手がブリジットの耳を撫でる。どくどくと脈打つ首に触れる。鼓動のひとつひとつすら、慈しむように。

 そのたびに呼吸が乱れて、逃げなければいけないと思うのに、抱かれた腰が痺れてまともに動けない。


 否、本当は動きたくないのだと、もう自分でも分かっている。


「ユーリ様、あのっ」

「…………」


 言葉はなく、ユーリの顔が近づいてくる。

 まるで自ら引き寄せてしまったように思うのは、ブリジットの両手が今もユーリの頬を包んでいるからだ。


 垂れ下がったマフラーの端が、ブリジットのむき出しの肩を撫でる。

 ぞわりと鳥肌が立つ。息をするのだって苦しい。


 そのまま、唇同士が触れ合う直前だった。


「…………だ、だめ」


 ――ぴた、とユーリの動きが止まる。

 拒絶されたことに動揺して、瞳が切なげに揺れている。


「……いやか」

「い、いやではなくてっ」


 慌てて否定する。

 そう、決していやなわけではない。

 いやじゃないからこそ、困っているのだ。どうしようもなく。


「……今も、恥ず、恥ずかしくて死にそうなんです」


 だから、と震える唇でブリジットは伝える。


「………………まだ、わたくしのこと殺さないで」


 このままでは死んでしまうのだと。

 身体が火照って、心臓が爆発して、もう自分は駄目になってしまうのだと。


 そんな訴えが届いたのか、ユーリが溜め息を吐いた。


「……弱った」


 本当に困り切ったように、彼はぽつりと言う。

 どうやら諦めてくれたのだと、ブリジットは思った。


 そうして気を抜いた直後。

 熱を孕んだ瞳が、まっすぐにブリジットを射抜いた。


「君が可愛い、ブリジット」

「……っ」


 甘やかな声。視線。

 指先のぬくい温度。

 満たされて、くらくらと目眩がする。それだけで全身が溶けてしまいそうになる。


 狼狽えて何も言えずにいるブリジットの耳元に、掠れた囁きが落とされる。



「誰よりも可愛い」



 もう一度、唇が近づいてきた。

 ブリジットはもう、ぎゅっと目蓋を閉じることしかできなかった。



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