第117話.二人きりのワルツ
楽団が奏でるワルツ。
耳に聞き馴染みのあるそれは、シエンナとの練習でも二番目に多く踊った曲――精霊交響曲第三番『ユニコーンの森』だ。
精霊をテーマにした曲のみが綴られた交響曲の中でも特に人気がある曲。
ユニコーンは獰猛な精霊だが、処女の胸に抱かれると大人しくなるという。その特徴を表すために中心になるのがヴァイオリンとティンパニの音色だ。
(えっと、ここで右足を引いて。ここで……)
森に彷徨った乙女の場面から、静かにダンスは始まる。
しかし身体が固いのに、密着するユーリはすぐに気がついたらしい。
「まだ緊張してるな」
「だって、ユーリ様とだから……」
曲と自身の手足に夢中のブリジットは、自分がなんて答えたかもしっかり認識していない。
沈黙するユーリに気がつかず、頭の中で必死に次の動きを確認する。
(ええっと、次は……)
「ひゃっ」
強引なリード。
ブリジットの片足が一瞬、宙に浮く。喉のあたりがひやっとする。
だが、転倒することはなかった。
というのもユーリがすぐさまブリジットの腰を抱き寄せたからだ。
見上げればユーリの顔がすぐ間近に迫っている。
海老反りにしなる背中を、彼の腕が事も無げに支えている。
「ユーリ様……!」
「なんだ?」
ブリジットは抗議のつもりで名前を呼ぶ。それなのにユーリは楽しそうだ。
アップテンポ。乙女が荒れ狂うユニコーンと遭遇する。迫力のあるティンパニが打ち鳴らされる。
抱き起こされた直後、ユーリの動きに合わせてくるり、とブリジットは回転する。
レースを重ねて膨らんだドレスがふわっと持ち上がり、夢のように広がっていく。
それこそ、ユニコーンに近づく乙女の好奇心と可憐さを表現するようなワルツ・ターン。
周囲で同じく踊る生徒たちが、感嘆の吐息を吐く。今や会場中の注目を集めていることなど、ブリジットには知る由もない。
気がつけば楽しくなって、笑ってしまっていたからだ。
(こんな風に踊れる日が来るなんて、思わなかった)
つられたようにユーリが微笑みをこぼす。
見つめ合うブリジットにしか分からない、小さな微笑。
途中からはもう、他の物は何も目に入らなかった。
ステップの確認はいらない。足元を見る必要だってない。
ただ、ユーリのリードに身を任せる。
そんな二人に寄り添う緩やかなヴァイオリンの音が、響き渡る。
最後は、ユニコーンが乙女の膝の上で眠りにつく。安らかな寝息……。
演奏が終わると同時、ブリジットはふぅと息を吐いた。
最初に生じたのは、名残惜しい、という気持ち。もっとユーリと踊っていたかったのだ。
「お二人ともとても素敵だったわね」
「息もぴったりと合っていて……」
「見惚れてしまって、相手の足を踏んじゃったわ」
ふとそんな話し声が聞こえてきて、声のするほうを見ようとしたが。
「――えっ!?」
ブリジットはぎくりとした。
顔を赤くした男子たちに一斉に取り囲まれていたからだ。
「メイデル伯爵令嬢、素敵でした。つ、次はぜひ私と踊っていただけませんか?」
「おい、俺が先だぞ」
「ボクが誘っている。お前は後ろに下がれ」
「先に声をかけたのは私だ!」
(な、何事なの?)
ブリジットは目を白黒とさせる。
今まで社交の場でのブリジットの役目は、惨めな壁の花になることだけだった。
あるいは、家から出るなとジョセフに言われて閉じこもっていただけ。だから周りの反応の意味がよく分からない。
せっかくのダンスの誘いを断るのは失礼に当たる。
この場合、一曲目を共に踊ったユーリと、二曲目三曲目……と踊るのも良い顔をされないと知っているから、どうすればいいのかと棒立ちになっていると。
「ニバル」
男子生徒たちの勢いの凄まじさに、離れたところに流されていたユーリが鋭く呼んだ。
「お前に言われなくても!――ブリジット嬢。次は俺と踊っていただけますか?」
「ええ、もちろん」
ニバルの助け船は素直にありがたい。
ずずいっと手を差し出してきたニバルに頷けば、「よっしゃ」と拳を握っている。
(ユーリ様はどうするのかしら……?)
公爵令息であり、最上級精霊二体と契約する神童。
そう称えられるユーリの周りにも、着飾った少女たちが集まってきていた。
しかしユーリの眼差しの威圧感が気になってか、誰も近寄ろうとはしない。
気になって視線を送っていると。
「キーラ」
「はいっ」
呼ばれたキーラがしゅたたっとユーリに駆け寄る。ヒールを履いているのに軽快な動きだ。
ユーリを眺めていた女子生徒と、キーラを囲んでいた男子生徒たちが残念そうに離れていった。
二曲目を踊り終えたところで、ブリジットは足に少しだけ違和感を覚えた。
「ブリジット嬢! 俺……感激ですっ!」
「わたくしも楽しかったわ、ニバル級長」
「光栄です!」
だばぁっと涙を流しているニバル。
その感涙っぷりのすさまじさのおかげか、先ほどのようにすぐに周囲を囲まれたりはしない。
それをありがたく思いつつ、ハイヒールに包まれた足をちらっと確認する。
(……ちょっぴり痛いかも……)
慣れないことをしたからか、ふくらはぎが張っている。
運動は得意だが、社交の場でのダンスはそれとはまったく性質の違う物だ。
家に帰ったらシエンナにマッサージを頼もう、と考えていると。
「ブリジット、足が痛むのか?」
ユーリが近づいてきて、小声で訊いてきた。
キーラと離れたところで踊っていたはずなのに、遠目に気がついたのだろうか?
ずっと気遣ってくれていたのだと思うと、それだけで鼓動が高鳴った。
「は、はい。少しだけ」
控えめにブリジットが肯定すると。
ユーリは周りを見回してから、さらに距離を詰めてきた。
小首を傾げるようにして、顔を寄せてくる。
柔らかい吐息と共に、耳の中に囁きが落とされた。
「抜け出そう」
「…………っ!」
そんな誘いの言葉に、ブリジットは顔を赤らめて頷いていた。
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