第115話.苦しみの中で光る
声も出なかった。
ただ、悲しかった。胸が痛くて張り裂けそうだった。
(そんなの……そんなの、やるせないわ)
五歳の誕生日。
喜びと誇らしさと使命感に満ちていただろうデアーグは、その報をどんな気持ちで聞いたのだろう。
伯父は絶望したのだろうか?
自分と違って優秀な弟を恨んだのだろうか。妬ましかったのだろうか。
それとも、悲しかったのだろうか。そうではない自分が。誰からも必要とされない自分が。
(その苦しさの一端を……私も知っている)
呆れられて、嗤われて、馬鹿にされて。
駄目な人間だとレッテルを貼られて、ただ生きていくだけの日々……。
『ぴっぴ!』
深く俯いていたブリジットは、はっと目を見開く。
手の中にちょこんと座ったぴーちゃんが、てちてちと小さな足を動かしている。
その温かさを感じているから。
毅然と顔を上げたブリジットを見て、執事長が目を細める。
「旦那様は――兄君とお嬢様を、重ねていたのかもしれません。優秀でない人間など、早く死んだほうがいいと。そのほうが幸せならば、と。……同時に、ご両親の呪縛からも逃れられなかったのでしょう。お嬢様を別邸に追いやり、罵る旦那様の姿は……実の息子を痛めつけるご両親のものに、よく似ていました」
それを聞いたとたん。
今も胸に突き刺さったままの言葉は、思い出すまでもなく浮かび上がった。
――ごくつぶし。むのう。やくたたず。むのう、むのう。
暖炉の中でブリジットの手を焼きながら、デアーグは何度もそう叫んでいた。
デアーグの親……ブリジットにとっての祖父母は既に亡くなっている。
ブリジットが赤ん坊の頃に二人とも病で身罷ったというが、それでもデアーグは解放されなかった。
伯父を苦しめただろう数々の責め苦は、同時にデアーグも闇の中に追いやっていたのか。
(何もかも、許せるわけじゃない)
デアーグの事情を知っても、ブリジットの中に巣喰う恐怖が消えることはない。
手を燃やされたことも、別邸に放置され冷遇されたことも事実だ。
毎日が苦しかった。それこそ、消えてしまいたいと思うことだってあった。
そんな過去の自分が、消えてなくなるわけじゃないのだ。
「教えてくれてありがとう、じい」
それでも、ブリジットは執事長にお礼を伝えた。
心からの言葉だった。知らないままでいるよりずっと良かったとそう思えるのだ。
単なる強がりではないと、幼い頃に面倒を見てくれた執事長には伝わったらしい。
「ブリジットお嬢様……本当に、お強くなられましたね」
「そうだといいんだけど」
くすぐったい賛辞に、ブリジットは眉を下げて笑った。
「あなた方もご同行願えますか」
声のするほうを見ると、魔法警備隊に囲まれているのはデアーグが雇った荒くれ者たちだった。
魔力を根こそぎ使い果たし、ぐったりとした彼らは次々と馬車に詰め込まれていく。
ロゼとアーシャもまた、同様に声をかけられている。
抵抗することなく指示に従おうとしている。思わずブリジットは二人に駆け寄った。
デアーグの行いを正すために、彼の言葉を風に乗せて王都中に届けた。
それを間違いとは思わない。だが、そのせいでロゼたちのことも巻き込んでしまった。
どんな沙汰が下るのかは分からないが、それがロゼの輝かしい未来に影を落とす結果になるかもしれないのだ。ただロゼは父の言いつけに従い、精霊を貸していただけなのに。
警備隊がブリジットのために道を空けてくれる。
どうやら別れの言葉を残す時間は与えてくれるらしい。
「ロゼ、わたくしは……」
「おれが、メイデル伯爵家を継ぎます」
ブリジットの言葉を遮って。
どこか清々しい顔で、ロゼはそんなことを言ってのける。
驚くブリジットに、ロゼは頭をかいて続ける。
「もしかしたら伯爵家じゃなくなるかもしれませんが……おれはあんまり気になりませんし。それと義父上のことも任せてください。これ以上、義姉上や義母上にひどいことはさせません」
警備隊に支えられていたアーシャが目を見張る。その瞳には涙が盛り上がっていた。
「でも……」
「そんな顔しないで。おれ、義姉上にはいつも笑っていてほしいな」
「……っロゼ……」
泣き出しそうになるブリジットに、おずおずとロゼが手を伸ばす。
「義姉上……」
――その手を、ぴしゃりとユーリがはたいた。
「あの……オーレアリス先輩、姉弟の交流を邪魔しないでもらえますか?」
「それが弟の顔か? 下心丸出しだぞ」
「あなたにだけは言われたくない……」
ブツブツと言い合っている二人だが、涙を堪えて鼻をすんすんするブリジットの耳にはほとんど入ってこない。
やがて諦めたように溜め息を吐いたロゼは、ユーリに向かい合うと。
「先輩。おれが戻るまでですけど、義姉上のことよろしくお願いしますね」
「お前に頼まれるまでもない」
鼻を鳴らすユーリに、ロゼが笑う。
「なら安心です!」
三人が護送用の馬車に乗り込んでいく。
最後にロゼは頭を下げて。アーシャは、ブリジットのことをじっと見つめて。
馬車が角を曲がって見えなくなるまで、ブリジットたちは見送ったのだった。
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