第112話.イフリートの腕
「お前……ッ!」
デアーグが非難する目を向ける。
自分の妻に向ける瞳ではないそれを、アーシャは怯えながらも真っ向から受け止めていた。
もう一度、ブリジットに視線を戻す。
「イフリートもサラマンダーも、私たちに心底呆れ果てていた。身勝手に娘を傷つけた私たちを、契約者として相応しくないと。だからもう十一年間、彼らは精霊界に帰ったまま……私たちの呼びかけには一度も応えていない。……ねぇ、ブリジット」
名前を呼ばれ、ブリジットはアーシャのことを見つめた。
「おかしいと思ったでしょう? どうして左手の火傷痕が、いつまでも消えないのか」
今は、左手にそのときの傷痕はない。しかしアーシャの言うように、何度か疑問に思ったことがある。
たとえば夏期休暇前、魔石獲りの一件でリサが腕に火傷を負った。
ジョセフによって炎魔法を灯されていた松明を、自らの腕に当てたためだ。
だが先ほど会ったとき、制服の袖から伸びるリサの腕にはまったく傷痕が残っていなかった。
学院側から神官を呼んで治癒させたと聞いたが、これほどきれいに治せるものだったのかと驚いたのだ。
「……はい。神官の治癒魔法でも、わたくしの傷は治せませんでした」
左手の指先から肩口に至るまで、見るに堪えないほどの有様だったというブリジットの身体。
駆けつけた神官の治癒を経ても手のひらには大きな傷が残り、幼いブリジットを何度も熱で責め立てた。取り寄せた軟膏を毎日のように塗っても、それだけは消えなかった。
その理由を、アーシャが苦痛を耐えるような表情で明かす。
「あれは、イフリートの炎を使ったから」
「……え……?」
「デアーグ様は、イフリートの腕を使ってあなたを焼いたの。意図に気がついたイフリートが、精霊界に急いで戻るまでのほんの数秒間。……だからあなたの傷は、この年になっても残り続けた」
「――――、」
思わずよろけるブリジットの身体を、ユーリが支える。
「ブリジット」
ユーリの呼びかけにも、答えられなかった。
ただ、ユーリの腕に縋りつく。そうでもしなければ、ブリジットは地面に座り込んでいたかもしれない。
(私を焼いたのは、暖炉の炎じゃなかった)
デアーグ自身の炎魔法でさえなかった。
あの怖ろしく燃え盛る腕は、イフリートの腕そのものだった。
十一年前、
(お父様はそれほどまでに、私を――)
『本当にコレが俺の子どもならば、名無しなんかと契約するわけがない。だから炎に触れさせ、
その冷徹な言葉さえも、周囲に向けて取り繕ったものだった。
ずっとデアーグはブリジットを憎悪していたのだ。自らの手で殺そうとするほどに。
その事実は、デアーグとの決別を決めたブリジットの胸をさえ激しく苛んだ。
視界がかすむ。涙を落とさないよう堪えるだけで精いっぱいだった。
そんなブリジットのことを、アーシャが眉を寄せて見つめている。
双眸から涙が幾筋も伝い落ちているが、それを拭うのも惜しいように口を開く。
「……“炎の一族”に嫁いだ女として、多くの子を産むようにと、先代の当主様から何度も何度も言われていた。でも私は……私が授かったのはブリジットだけ。ブリジットだけが希望だった。でもあなたは、微精霊と契約してしまった……」
魔力を溜めるための、目には見えない器のようなものが人の身体の中にはあるという。
器の大きさは遺伝する。それ故に、炎の一族や水の一族など傑出した一族が名を轟かせてきた。
しかしそれでも、最上級精霊と契約できる人間などほんの一握りだ。
だからこそ、魔法に優れた家では多くの子を産み育てる。契約の儀で名のある精霊と結ばれるためには、最も単純で効率の良い方法だからだ。
たとえば筆頭公爵家であるオーレアリス家にも、四人の子息が居る。
だがその内、最上級精霊と契約したのは長男と四男のユーリのみだ。
アーシャが語る言葉には、押しつぶされそうな彼女の本心だけが現れていた。
今まできっと、一度も口にするのを許されなかった気持ちだけが。
「全部お前のせいだ、と言われるのが怖かったの。怖くて怖くて、仕方なかった! だから助けてって叫ぶあなたから、私は目を逸らした。母親なら、あ、あなたを、命がけで守らなくちゃいけなかったのに……っブリジットはずっと、ずっと泣いていたのに……っ!」
泣き崩れるアーシャを、ロゼが支える。
むせび泣くアーシャを呆然とブリジットは見つめる。
――『会えなくなるからやめて』
アーシャが侍女に告げたというその言葉の意味を、何度も考えていた。
都合の良い解釈をしてしまう自分も居た。もしかしたらアーシャは、炎が苦手なブリジットに会おうとしてくれていたのではないか……と。
それは、たぶん間違いではなかったのだ。
しかし別邸に向かうことはデアーグに許されなかった。苦しみ続けるアーシャの心は、
「いい加減にしろ」
アーシャの泣く声を掻き消そうとするように、デアーグが声を荒げる。
「好き勝手に、余計なことばかり口走って……だからお前は――」
「メイデル伯爵」
遮ったのはユーリだった。
デアーグは憎々しげにユーリを見遣る。
「……なんだ。オーレアリス家の人間が余計な口出しをするな」
「そうですか。それ以上喋るのは、あまりお勧めしませんが」
「……どういう意味だ?」
ユーリは、にこりともせず言い放った。
「この会話は、王都中に筒抜けになっていますから」
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