第109話.ずっと届かなくても
馬車がゆっくりと停まる。
窓には黒いカーテンが引かれ、外の様子は分からないようになっていた。
同乗していた男たちに目線で促されるまま、ブリジットは馬車から下りる。
見上げれば、やはりそこは思った通りの場所だった。
「行きましょう」
声をかけられ、五人の男に周囲を固められながら移動する。
「ぴー……」
屋敷の階段を上っている最中、胸元のポケットから不安そうな鳴き声が聞こえた。
ポケットの上からぽんぽんと叩いてやるが、ぴーちゃんの震えは治まらない。
(……いえ。震えてるのは私のほうね)
ぴーちゃんはただ、震え続けるブリジットを心配しているだけだった。
案内された書斎には、ブリジットだけ入るよう言われる。
大人しく従い、入室すれば、そこにはブリジットを呼び出した人物の姿があった。
「…………お父様」
重苦しい声で呼びかける。
しかしブリジットの父親――デアーグ・メイデルは背もたれに身体を預け、手にした書類に目を落としていた。
数秒が経ち、ちらりとこちらに目を向ける。つまらなそうに鼻を鳴らす。
「五人も居れば取り押さえるのは容易いか」
その一言で、ブリジットは悟る。
デアーグが黒ずくめの男たちに命じたのは、ブリジットの連行だろう。
だがきっと、抵抗するようなら何をしても構わないと父は言ったのだ。ブリジットが無傷なのを確認しての、冷たい言葉だった。
ふいに、左手の甲のあたりに痛みに生じる。
右手で庇うように、ブリジットは左手を掴んだ。そうでもしなければ、とても立っていられない。
(もう傷なんか、ないのに)
ぴーちゃんが、ブリジットを蝕む火傷痕を消してくれた。
ユーリや周りの人々が、傷ついた心を少しずつ癒やしてくれた。
それなのに、今も苦しい。デアーグを目の前にすると、全てが十一年前に戻ってしまったような錯覚を覚える。
(……駄目。落ち着いて)
心の中で、必死に自分に言い聞かせる。
取り乱してはいけない。負けてはいけない。弱いところを見せてはならない。
ゆっくりと口を開く。
声が震えないように、と祈るような気持ちだった。
「わたくしは、そもそも、抵抗などしていません」
近くにキーラやリサも居たのだ。彼女たちや、他の客を巻き込むわけにはいかなかった。
今頃、二人はどうしているだろう。キーラは連れて行かれるブリジットに縋りつき、泣き出しそうな顔をしていた。ただ事ならぬ雰囲気だと察していたのだろう。
「本邸に戻る意思があるかどうかと、お父様はわたくしに問いましたね」
「…………」
「パレードのあとにきちんとお返事をするつもりでした。それなのに……どうしてこんな形で、わたくしをここに呼んだのですか?」
気丈に顔を上げるブリジット。
しかしデアーグはつまらなそうに一瞥すると、言い放った。
「ブリジット。お前には婚約者が居る」
ひゅ――、と変な音がした。
それが自分の喉元から出た音だと、ブリジットが理解するには時間が掛かった。
「……どなたです?」
デアーグが男性の名前を口にする。しかし聞いたこともない名前だった。
改めて、突きつけられたような気がした。
(この人は――、私のことなんて、なんとも思っていない)
デアーグにとってのブリジットは、都合のいい婚約者を宛がって、思い通りに動かしたいだけの人形でしかない。
視界が傾いたような気がした。
ぐるぐると世界が回り続けているような、気持ちの悪い感覚。
今、まともに自分は立てているのか。それすらも分からないまま、震える唇を開き直した。
「突然、本邸に呼び戻して、しかも顔すら知らない相手と婚約しろと?」
「そうだ」
「お父様はただ、ぴーちゃん……フェニックスの力がほしいだけなのですよね?」
「そうだ」
「わたくしのことも、わたくしの気持ちも、最初からどうでもいいと思っている」
「この問答は無意味だな」
聞き分けのない子どもに呆れたように、デアーグは深い溜め息を吐いた。
「お前にとって願ってもない話だろう。むしろ感謝してほしいくらいだ。お前のような不出来な娘を敷地内に置いていたのは私の温情だぞ」
(どうして……)
お互いの言葉がまったく噛み合っていない。
それが歯痒くて、悔しい。ブリジットが何を言っても、デアーグには届かないのだ。
デアーグが強硬策に出たのは、彼自身がブリジットに戻るつもりがないと察していたからだろう。
だからブリジットから返事をする場さえも取り去った。一方的に命令する道を選んだのだ。
それでも、と思う。
それならば仕方がないと諦めて、引き下がるつもりはない。
怖くても自分の気持ちを主張しなければ、無理やりにでも連れ戻されてしまう。
「いやです。わたくしは納得できませ――」
言いかけたその瞬間だった。
ブリジットの頭の真横から、大きな破裂音が響いた。
「!」
あまりの衝撃に、頭の中が真っ白になる。
ブリジットはその場にくずおれる。全身を震わせながら、どうにか首の向きを変えた。
すぐ傍に、硝子の破片が飛び散っていた。
デアーグが硝子製の灰皿を投げつけてきたのだと、ぼんやりと理解する。
「…………、」
ぽたぽたと、いくつもの血の滴が絨毯の上に散る。
破片で切ったのだろうか。ブリジットは頬に手を添えたが、どこかが麻痺しているのか、痛みはうまく感じられなかった。
「だから、お前の意思など聞いていない!」
建物中が震えるような凄まじい咆哮。
殴りつけるような怒声を浴びたブリジットは、動けなかった。
「パレードの最後、風魔法を使ってお前の婚約者を王都中に知らせる」
話はこれで終わりだと言わんばかりに、デアーグは部屋を出て行こうとする。
「……約束、したのに」
だがその足が、止まった。
消え入りそうな声音を、それこそ聞こうとしたかのように、足音が止まる。
「わたくしが、大きくなったら……近くでパレードを、見せてくれるって。イフリートの魔法を見せてくれるって、言ったのに」
ほんの一瞬の、デアーグの動揺だった。
それには気がつかないまま、ブリジットは立ち上がる。
その拍子に、再びいくつもの血が散る。だが、そんなことは気にならなかった。
頭の芯が、熱く燃えるような――その感覚は、怒りに近かったのかもしれない。
「この家には戻りません」
「なんだと?」
「絶対に戻らない」
「わたくしにとっての家はここじゃない!」
デアーグが目を見張る。
ブリジットの言葉そのものというより、真っ向から睨みつけるその瞳に驚いているようだった。
「シエンナが居て、カーシンが居て、ネーサンが居て、ハンスが居て……大好きなみんなが一緒に居てくれる。それがわたくしの家です!」
「……お前の家ではない。あれは俺が与えただけの物置だ」
「それなら、あなたの居るこの家は暗く澱んだ牢獄だわ」
デアーグの表情が怒気を孕んだ。
肩を突き飛ばされ、ドアにぶつかる。それでも視線は逸らさなかった。
思い通りにならないブリジットに、デアーグは苛立ちを隠そうともしない。
「従わないならフェニックスを置いて出て行け。無論、物置小屋は解体するがな」
「いやです」
間髪容れず首を横に振る。強く拒絶する。
そんなブリジットを、得体の知れない生き物を見るようにデアーグが眺める。
「お前に行き場などない、ブリジット。たかが学生の身分で調子に乗るなよ。何人もの使用人を路頭に迷わせるだけだとなぜ分からない?」
その言葉に、ブリジットは唇を噛み締めた。
デアーグの言う通りなのだろう。
彼の庇護の下、ブリジットは生活してきた。
火傷を負い、本邸を追い出されての日々だったとしても、それは事実だ。
(それでも、私は)
歯を食いしばる。
泣き出したいのを我慢する。言い負かされたと思われたくなかった。
ただ、願うのはひとつだけなのだ。
(私を認めてくれる人たちと、一緒に生きていきたい)
――ガシャアアアンッ! と大きな音が響き渡った。
反射的にブリジットは顔を庇って蹲る。
書斎の窓硝子が一斉に粉砕されたのだ。何事かとデアーグが叫び、ドアの外からも騒がしく怒号や足音がする。
そんな喧噪の中。
破片だらけの床の上に降り立っていたのは、一匹の狼だった。
神々しいほど美しい、青い毛を靡かせた巨大な狼から、ひとりの青年が飛び降りる。
「そんなことにはなりません」
堂々と、一分の迷いもなく言い切る声。
それを耳にしたとたん、瞳がにじむ。もう涙は止めようがなかった。
(どうしていつも、あなたは)
見上げる目の真ん中に、青い髪の毛の人が立っている。
同じように
まるで誓いの言葉のように、ユーリは言った。
「ブリジットは、僕の婚約者ですから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます