第100話.姉と弟
眠り込むアーシャを連れて森を出る頃には、空は白み始めていた。
白い靄の漂う森は、恐らく人間界というより精霊界に近い空間だったのだろう。
精霊界の時間の流れは、人の住む世界とは大きく異なっている。
「あっ……ブリジット先輩!」
呼び声に振り向くと、ちょうど馬車を下りたロゼが駆け寄ってきている。
御者台には手綱を握るクリフォードと、その隣にシエンナの姿もあった。
ロゼはユーリがおぶさったアーシャを見ると表情を緩め、何度もブリジットにお礼を言ってきた。
そのあとは、しばらく別荘で休ませてもらうことになった。
近くに住む管理人からシエンナが鍵を受け取り、早馬で本邸にも報せを送ってもらう。
アーシャを休ませる意味もあったし、ブリジットたちもかなり疲弊していた。
半日間も夜通し走ってきた馬たちにも、水と飼い葉をやって休ませている。
他に使用人は連れてきていないため、別荘に居る間はクリフォードとシエンナが身の回りのことを取り仕切ってくれた。
その翌日の朝。
眠るアーシャを置いて、ブリジットたちは一度、王都へと戻ることになった。
明日は登校日のため、三人揃って欠席するわけにもいかなかった。
そして明日は神殿から神官長のリアムと精霊博士のトナリが、ぴーちゃんの能力を調査するために学院にやって来る日でもあったのだ。
世話役としてシエンナと、それにクリフォードも残ってくれることになった。
元はといえば部外者であるクリフォードにこれ以上の面倒はかけられないと思ったのだが、彼の主であるユーリが問題ないと言ってくれたため、厚意に甘えた形だ。
(本当は、お母様と話をしたかったけど)
ブリジットは、母の言葉の真意を確かめたいと思っていた。
最後の記憶の中で、アーシャはブリジットの包帯まみれの左手を握り、恨み言ばかりを吐き続けていた。
それなのに昨日、意識を失う前にアーシャは言った。ブリジットに会いたかったから、ずっと火を使わなかったのだ――と。
(私がお父様に、火傷を負わされたから?)
だとしたら、アーシャは今もブリジットを恨んでいるわけではないのかもしれない。
それを知るためにも話をしなければと思った。昔は、きっとこんな風には思えなかっただろう。でも今は、怖くても母に向き合いたいと考えている。
ロゼも眠り続けるアーシャが心配な様子だったが、父に今回の件を改めて報告してくれるため、一緒に王都に戻ると決めてくれた。
(家に帰ったら、マフラー編まなきゃ!)
建国祭は早くも一週間後の週末に迫っている。
そろそろユーリに贈るマフラーも仕上げに入るときだ。シエンナが傍に居ないのは不安だが、なんとかひとりでやり遂げたい。
それは同時に、本邸に戻れという父の言葉に従うのかどうか、答えを出さないといけない日でもあるが――。
「伯爵家の人間のくせに、お前は馬も扱えないのか」
「いいえ! 今回はオーレアリス先輩の腕前を拝見したいなと思ってるだけです!」
「後輩なら後輩らしく、少しは先輩の役に立ったらどうだ?」
「格好良い先輩の姿を見れば、おれも心から尊敬できるかもしれません!」
(ええっと……)
考える傍ら、やかましい言い合いが続いている。
外に出てから、ずっとこんな調子なのだ。思考をぶった切られたブリジットは、思わず溜め息を吐いた。
というのも、帰りの馬車の御者をどちらが務めるかでユーリとロゼが揉めているのだ。
シエンナとクリフォードが別荘に残るため、必然的に残った三人の中から御者を決めなくてはならないのだが。
ブリジットは、向かい合って火花を散らすユーリとロゼに近づいていった。
「あの、そんなにいやなら、わたくしが御者を」
「その必要はない」
「その必要はありません」
きっぱりと断られる。
気を使って申し出ても、二人ともずっとこの調子なのだ。こういうところばかりは息が合っているような気がする。
(私、馬の扱いはわりと得意なのに……)
そんなに頼りないだろうか。ちょっと落ち込む。
困ったブリジットは、ユーリの袖を軽く掴んだ。
「ユーリ様、ユーリ様」
「……なんだ」
そのまま彼を引っ張って、少しロゼから距離を取らせる。
渋い顔つきのユーリの耳元に、ブリジットはつま先立ちになって囁いた。
ロゼに聞こえないよう、口元に手を当てて訊いてみる。
「なんだかユーリ様、ロゼ君には妙に意地悪じゃありませんか?」
「言いたいこともまともに言えないヤツを、労る必要はないからな」
ブリジットの気遣いを無下にするほど、その声は大きかった。
焦って視線をやれば、やはり聞こえていたらしい。ロゼは腹立たしげに眉を寄せている。
「お、おれだって言いたいですよ。でも……」
「……ロゼ君? この前言いかけてたことね?」
気がついて指摘すれば、ロゼがおずおずと頷く。
理由はよく分からないが、どうやらロゼはブリジットを"赤い妖精"と呼びたくて仕方ないようなのだ。
「二日前も言ったじゃない。いいのよ、好きに呼んでくれて」
「わ、分かりました」
優しく促すと、ロゼがゆっくりと頷いた。
緊張した面持ちで、大きく息を吸って吐いてを繰り返している。
そうして、意を決したように口を開くと。
「あ、あ、あう、あね、あうう、アネネ、あうッ、ううう……っっ!」
(あっ。この前と同じ発作!)
あうあう言いながらロゼが額に汗を浮かべている。
この前もメイデル家の本邸で、こうやってロゼは悶え苦しんでいた。
あまりに苦しげなので、見ているだけでハラハラしてくる。
彼の脳の血管を守るためにも、ブリジットは止めようとしたのだが。
「――――あ……、義姉上っっ!」
耳に飛び込んできたのは、そんな信じられない呼びかけで。
というのもロゼは、ブリジットのことだけを見つめて、その言葉を叫んでいたから。
「あ、義姉上! 義姉上! 義姉上ぇ!」
壊れた人形のように呼び続けるロゼに、ブリジットは目を丸くするしかない。
そのままロゼは力尽きたように、その場にへたり込んでしまった。
「や、やっと、呼べたぁ……っ」
「……ロゼ君。わたくしのことを、姉と呼びたかったの?」
しかしブリジットが問えば、慌てて立ち上がる。騎士見習いのような直立不動のポーズだった。
「は、はい! でもあの、ずっとご迷惑だと思ってて――おれ……」
打ち明ける間も、ロゼの顔は真っ赤だった。
目も合わせられないようで、俯きがちだ。
顔を上げようとするたび、ブリジットの視線を感じるのか、大慌てで背を丸めて恥ずかしがっている。
そんな様子を見ていて。
ブリジットの心臓が……きゅん、と鳴った。
(どうしよう。可愛い!)
思わずブリジットは、ロゼに抱きついていた。
「っ!?」
その瞬間、ロゼの全身がはっきりと緊張する。
それでようやく、ブリジットは正気づいた。
「あっ、ごめんなさい! いやよね、こんな風に馴れ馴れしく抱きついたりして」
謝りながら離れれば、ロゼは拳で口元を隠していて。
「いえ……えっと……すみません、義姉上。情けないので、こちらを見ないでいただけると助かります」
その赤い顔はほとんど隠せていない。
間違いなく彼は照れていた。姉弟としての触れ合いを、決していやがってはいない様子だ。
(私の弟、可愛い!)
初心な反応に、ますますきゅんきゅんしてしまうブリジットである。
というのもブリジットだって、ずっとロゼのことは気にしていた。
一人っ子だったから、兄弟姉妹への憧れもあった。できることなら仲良くしたいと思っていたが、容易く近づけずにいたのだ。
この機会に親睦を深めようと目論むブリジットだったが、そこに割り込む声があった。
「ブリジット」
左手を掴まれ、後ろに引かれる。
首だけで振り向くと、怒ったような顔のユーリが居て。
「弟とかなんだかである前に、そいつは男だ。ちょっとは警戒心を持て」
「あら、ユーリ様ったら。それじゃあまるで、妬いてらっしゃるみたいですわよ?」
オッホッホッホ、とブリジットは久々に高笑いをした。それくらい浮かれていたのである。
しかしふざけた言葉には、しばらく返事がなくて。
無防備なブリジットの腰に、するりと手が回される。
身体の向きまで変えられてしまい、至近距離でユーリと見つめ合った。
(え? えっ?)
唐突な事態に固まるブリジットの髪の中に、ユーリが顔を埋める。
そこに落とされたのは、怒りを滲ませているくせに、どこか睦言めいた甘い囁きだった。
「……そうだと言ったらどうするんだ、お前」
(……えっ? 本当に妬いてるの?)
今度はブリジットが、林檎のように真っ赤っかになってしまう番だった。
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