第98話.ブリジットの真価1
爛々と光るアルプの両目が、ブリジットをじぃっと見つめる。
その首についた首輪の鈴が、ちりんと鳴った。
背筋に薄ら寒いものを覚えながらも、ブリジットはアルプを気丈に睨みつけた。
口を開きながらも、とんとん、とお仕着せのポケットを軽く叩いておく。
「あなたは、アルプね? この人に何をしたの?」
『――夢、食べタ。たくさん』
どこかぎこちないが、アルプは人の言語を用いて言葉を返してくる。
『見たいもの、夢の中デ見せてやっタ。人間、見たいものたくさん、あるかラ』
首を傾け、尖った牙を剥きだしにして、喉奥でアルプが低く笑う。
よくよく目を凝らして見つめると、アルプの口元が、絶えず白い靄のようなものを吸い込んでいる。
それはぐったりと眠るアーシャの口から漏れ出ているものだった。
やはり、アーシャはアルプの魔性の力に取り込まれてしまったのだ。
アルプは今もアーシャの精気を吸っている。彼女が目を覚まさないのはそのせいだ。
(どうしよう)
精霊が、互いを直接攻撃することはない。
そして攻撃したとしても、その魔法の効果は薄いとされている。人と違って、精霊は同胞を傷つけるために力を使うことはしない生き物なのだ。
ブルーやウンディーネ、ぴーちゃんの魔法を頼ることはできないし、ブリジットだってそんなことはさせたくはない。精霊の力は、他者を傷つけるのに使うべきではないのだ。
(私やユーリ様が、アルプを攻撃することもできるけど……)
魔法であれ剣であれ、精霊を殺す術はないとされている。
アルプを一時的に追い払うことはできるかもしれないが、それでは意味がない。アーシャの精気が延々と搾り取られてしまうだけだ。
つまりアルプに、アーシャを諦めさせなければならない。
必要なのは"交渉"だ。精霊は約束事を裏切ることはしない。悪妖精だろうとそれは変わらない。
アーシャは見るからに体調が悪そうだ。一刻も早く連れ帰るためには、失敗は許されない。
(大丈夫。……大丈夫よ。私は、精霊博士を目指しているんだから!)
震えそうになる膝を叱咤して、ブリジットは毅然と立ち上がった。
ブリジットがアーシャに嫌われていることは、今は関係がない。
ただ、精霊に苦しめられる人のことは救わなければならない。それは精霊博士の役目のひとつだ。
その思いでアルプを指さし、まずこちらの要求を伝える。
「アルプ。この人を、解放してちょうだい!」
『いやダ。ほしいなら、身代わり寄越セ』
口端からこぼれかけた涎を、じゅるりとアルプが吸い上げる。
その目は食い入るようにブリジットを見つめている。
『女。身代わりは、若い人間の女ダ!』
世にも不気味な顔でギャギャギャッ、と笑うアルプ。
それを引き気味に見つめながら、ブルーがぼそりと言った。
『ブス。身代わりになってやれば?』
(ちょっと!)
ブリジットはぎろりとブルーを睨んだ。
悪妖精の要求を率直に呑むのがどれほど危険なことか、精霊なのだからブルーもよく分かっているだろうに。
するとユーリが変なところに食いついた。
「ブルー。そんな風に呼ぶんじゃない」
『えっ!……ご、ごめんなさい』
まさか敬愛する主人に叱られるとは思っていなかったのだろう。
しゅんとブルーが俯いてしまう。毛並みのいい自慢の尻尾まで、力なく垂れ下がってしまっていた。
(なんだか可哀想かも)
あまりに悲しげなので同情していたら、ブルーがブリジットを上目遣いしてきた。
『じゃあ………………ブリ』
「ブリ!?」
微妙なあだ名をつけられ、ブリジットは復唱してしまった。
でも、ブス呼ばわりされるよりはだいぶマシな気もする。いや、どうだろう。どちらもだいぶ微妙だ。
『どうしタ。身代わり決まったカ?』
苛立ったようにアルプが催促してくる。
そのとき、ブリジットの頭に閃きが走った。
(――――そうだ)
単なる思いつきだ。だが、試してみる価値は十分にある。
真面目な顔を作って、ブリジットはアルプに頷いてみせた。
「分かった。わたくしが身代わりになるわ」
『はぁっ!? おまえ、本気で言ってるのか?』
本気でそんなことを言い出すとは思っていなかったのだろう、ブルーが慌てている。
しかしブリジットは悲しげに首を振ってみせ、「ええ、本気よ」と肯定してみせた。
胸に手を当てて、高らかに宣言する。
「身代わりになるのは、このわたくし――ブリ・メイデルよ!」
(…………はっ……恥ずかしい!!)
わけのわからない名前を名乗るのは非常に恥ずかしかったが、なんとか我慢する。ここで噴き出してしまえば全てが水の泡なのだ。
演技の甲斐あってか、アルプはあっさりと納得してくれた。
『いいだろウ。娘、こっちに来イ』
「分かったわ」
緊張しながら、ブリジットはアルプに向かって歩き出した。
泉を迂回するように歩いて行く。舌なめずりをして、アルプは若い娘の到着を待ち受けている。
ブルーはオロオロしながら、そんなブリジットとアルプを見比べている。
『ますたー。コイツ、変なこと言っ――むぐぅっ』
大きな顎を掴んで、ユーリがブルーを黙らせる。
さすがというべきか、既にユーリはブリジットの意図に気がついているようだ。ユーリの冷静さに、ブリジットも救われる思いがした。
しかしブルーはそんな主人の手さえ振り払うと、
『やめろぉっ、アルプ! ブリを連れてくなっ、ばかばかばか!』
そう喚きながらブリジットに追い縋ってきた。
思わずブリジットは振り返る。
ブルーのそれは演技ではなかった。本当に悲しげな叫び声は、足を止めるのに十分な理由だったのだ。
だが既に契約は成立している。最上級氷精霊のフェンリルであるブルーでも、ブリジットをアルプから取り返すことはできない。
弱ったブルーは駆け戻り、ユーリの制服の裾に噛みついている。
しかしユーリは微動だにしない。そんな主人にブルーは必死に訴えかけている。
『ますたー、ブリが連れてかれちゃうよぉ! ますたーってば! うわぁん、やだやだやだあ!』
「ブルー、あなた……」
ブリジットは息を呑む。
(あなた、本当はすっごく、私のこと好きなんじゃないの……)
指摘したいのは山々だったが、そこはぐっと堪える。
そして再び、ブリジットは歩を進めた。ブルーはわんわん鳴いている。そんな悲劇の光景を前に、アルプだけは楽しそうに笑っている。
そうして、アルプに手が届くほどの距離に近づいた瞬間。
ブリジットは鋭くその名前を叫んだ。
自らの契約精霊の名前を。
「ぴーちゃん!」
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