第97話.初めてのお姫様抱っこ
森の中を二人と一匹は進んでいく。
そう深い森ではないが、それにしても暗い道が続いている。
森に入ってからは、それまで聞こえていたはずの虫の鳴き声や、それに妖精の話し声も聞こえなくなった。
森や小川の近くといった緑豊かな場所は、小妖精たちが好んで寄りつくものなのだが。
(
多くの妖精が、姿を隠して潜んでいるのかもしれない。
警戒しながらブルーの後ろをついていくと、すぐ背後から「ガササッ」と茂みが揺れる音がした。
「きゃっ」
驚いたブリジットは勢いよく飛び退く。
何かと思えば、丸まった尻尾の生き物が逃げていくのが目に入る。
大きさからして、栗鼠か何かだろうか。
(脅かさないでほしいわ、もう……!)
ふぅと息を吐いたところで、気がつく。
ブリジットの肩と腰を、ユーリの手が支えていた。傍らの彼に抱きついてしまっていたらしい。
「す、すみません!」
「お前はいつも危なっかしい」
(うっ)
やっぱり、悔しいが言い返せない。
赤くなるブリジットの手を、ユーリが何気なく握りしめた。
「足元に気をつけろ」
「……っ、はい」
どうやら呆れているわけではないらしい。
ユーリに手を引かれながら、ブリジットは歩いて行く。
それから間もなく、先を行くブルーがこちらを振り返った。
『ますたー。ここ、ニンゲンっぽい足跡がある』
駆け寄れば、ブルーの示す地面がぬかるんでいる。
斜面のため、このあたりだけ地盤が緩いのだろうか。泥の中にひとり分の小さな足跡がついている。
その足跡は、森の奥側に向かっていた。
『臭いはまだ濃いから、近くに居るかも』
母の臭いを覚えたブルーがそう言うのなら、この足跡の持ち主はアーシャなのだろう。
ぴょんっとひとっ飛びでぬかるむ斜面を乗り越え、ブルーが進んでいく。
ブリジットもついていこうとした。借りたお仕着せに泥を跳ねさせるわけにはいかないので、少し助走をつけようと後ろに下がる。
しかしそのときだった。
「ひゃああっ?!」
ブリジットは甲高い悲鳴を上げた。それも当然である。
突然、自分の足がふわりと宙に浮いたかと思えば、横抱きにされていたのだから。
反射的にユーリの首にしがみつくと。
「跳ぶぞ、ブリジット」
返事を返す間もなく。
ブリジットを抱きかかえたユーリが、軽々とジャンプをした。
(うひゃああっ!?)
次は悲鳴を上げる余裕もなかった。というか口を開いていたら、舌を噛んでいたかもしれない。
ユーリは軽やかに着地してみせて、何事もなかったようにそのままブルーを追う。
――そう、ブリジットを大事そうに抱いたまま。
(しっ、心臓おかしくなりそうっ、なんだけど!)
背中と膝裏に回された手の大きさに、くらくらする。
たぶんユーリは、ブリジットが転ぶかもと憂慮したのだろう。
それで気遣って、わざわざこうして……と納得してはいたが、気恥ずかしさは拭えない。
照れ隠しにブリジットは唇を尖らせる。
可愛くない口調で、ぼそりと言った。
「お、重いでしょう」
「どこが?」
だが真顔で返されてしまった。そんなことが嬉しくて、じんわりと頬に熱が灯る。
ブルーに重い重いと文句をつけられて、自分でも意外なことにけっこうショックを受けていたらしい。
食事量を減らすべきとか、お菓子を控えめにすべきだとか。
わりと真剣に検討していたのだけれど、ユーリがそう言うなら、まぁいいかと思える。
「……今日のユーリ様って、わたくしの心臓を止めるつもりだったりします?」
「どういう趣味だ、それは」
ふざけたことを問えば、ユーリが溜め息を吐いた。
それなのに声音は穏やかだった。自然と彼の胸に左手を当てていたブリジットは、ふと気がつく。
手のひらの下で脈打つ音が、激しいことに。
(ユーリ様も、ドキドキしてるの……?)
もっとちゃんと確かめたくて。
逞しい胸板に置いた手に、意識を集中する。
それで確信した。
やっぱり、どくどくと速いスピードで鼓動を打ち鳴らしているのはユーリの心臓だ。
(私よりも、速い?)
目を閉じて、ユーリの首元に頬擦りをする。もっとよく、深く、彼の音を聞いてみたかったのだ。
その仕草が恋人に甘える少女のそれのようだと、夢中になるブリジットはまったく気がついていなかったが。
「――ブリジット」
掠れた声で囁かれて、どきりとした。
ブリジットの耳元に唇を寄せたユーリが、ひっそりと続ける。
「ブルーが何か見つけたようだ。下ろすぞ」
「は、はい。ありがとうございます……」
どうにか返事をする。ユーリは丁寧な手つきで、ブリジットを下ろしてくれた。
前を歩いていたブルーは既に立ち止まっていた。
茂みに低い姿勢で四つん這いになり、前方を注視しているようだ。
ブリジットたちも足音を殺して、そんなブルーに近づいていく。
茂みに隠れて、そっと顔を出してみる。ブルーが見ているのは小さな泉だ。
(これ、私が昔、行こうとした……)
幼い頃の記憶を振り返りながら、見回してみたときだった。
泉のほとりに、人が倒れているのに気がつく。
赤茶色の髪の毛の女性。
仰向けに倒れるその姿を見たとたん、ブリジットは目を見開いていた。
(お母様!)
飛び出すブリジットを、ユーリたちも止めなかった。
アーシャに駆け寄り、傍らに膝をつく。
意識はないようだが、僅かにその胸は上下していた。
安堵すると同時にブリジットが驚いたのは、アーシャがひどく痩せていることだった。
顔は土気色で、地味なドレスの裾から覗く手足も棒のように細い。そのせいか、記憶にあるよりもずっとアーシャは年を取ったように見えた。
『おまえは、だれダ』
さらさらと水の流れる音に紛れて、その不気味な声は響いた。
ブリジットが顔を上げると、泉の淵に座ったそれが、まっすぐにこちらを射抜く。
その身体を青白く発光させる、亡霊じみた白猫。
悪妖精である、アルプの化けた姿だった。
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