第96話.あたたかな記憶
「……い。おい。大丈夫か? ブリジット」
(…………はっ)
軽く頬を叩かれ、ブリジットの意識は急浮上した。
目を開ければ、目の前には薄闇が広がっていて――そしてそんな景色も急加速的に、ごうと唸りながら後ろへと流れていく。
全身に生ぬるい風を浴びて、ブリジットはようやく思い出す。
場所はフェンリルの背中。行き先はメイデル伯爵家の領地である。
見慣れない景色を見るに、どうやらかなりの距離を南下してきたようだが、出発してからの数分間しか記憶にないとはどういうことか。
冷や汗をかきつつ、オホホとブリジットは笑ってみせた。
「わたくしとしたことが。スピードに驚いて、ちょっとだけ居眠りしちゃったのかしら?」
「そうか。人はそれを気絶と呼ぶが」
(穴があったら入りたい!)
精霊博士を目指すと豪語しておきながら、フェンリルの背中で意識を失っただなんて、あまりにも恥ずかしいではないか。
首の角度を傾けてユーリがこちらを振り返ってくる。
「だが、それでも手は離さないから驚いた」
「……えっ」
「危ないから位置を入れ替えようとしたが、すごい力でしがみつかれていて解けなかったんだ」
ユーリは他意のない様子で淡々と教えてくれるが、聞いている間にもブリジットは羞恥心でどうにかなりそうだった。
このまま詳細を語られては堪らないと、必死の思いで口を開く。
「あの、でも……っ、つ、次こそは!」
「次?」
「次こそは必ずや、立派に乗りこなしてみせますから!」
ぐっと拳を握って宣言する。振り返ったまま、ユーリは唖然としていた。
「また乗るつもりか。もしかして帰りも?」
「帰り――。え、ええっ、そうですわね。帰りこそ頑張りますわ!」
無理をして言い張れば、ユーリが瞳を柔らかく細める。
伸びてきた腕が、頭に被ったキャップごと髪の毛をくしゃりと撫でた。
「やめておけ。ここまで山やら谷やら、散々越えてきたんだ。大人しく馬車で帰ればいい」
言外にお前には無理だ、と諭されている。
でもそれは呆れではなく優しさだと、見つめ合う瞳の温度が伝えてくれていた。
それだけで胸が高鳴った。その音は、きっと風の音に紛れて聞こえなかったはずだけれど。
「……くしゅっ」
ふと、ユーリが小さなくしゃみを落とした。
はっとする。吹いている風は生ぬるいといっても、ここまでずっとユーリは直接風を浴びていたのだ。
コートこそ着ているものの、よっぽど体温を奪われたことだろう。
「ユーリ様。寒いんですの?」
「……そうだな。少しだけ」
あっさりと同意するあたり、本当に寒いのだ。
ブリジットは恐る恐る片手だけ離すと、シエンナが持たせてくれたカイロをポケットから出した。
薄い布包みの中に入っているのは炎の魔石だ。それを持って、ユーリに差し出す。
「これをお使いください。少しはましになるかと」
「…………」
しかしそこで信じられないことが起きた。
なんとユーリはカイロを持ったブリジットの手ごと、自らの手で包み込んでしまったのだ。
すっぽりと、自分のものではない体温が重なって。
「ひゃあっ」
驚いて声を上げてしまうが、ユーリはどこ吹く風である。
「このほうが温かい」
「そ、っれは、そうかもしれませんけど!」
「子どもは体温が高いというし」
(子どもって!)
馬鹿にしているのかと見上げるが、ちらりと見えた口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。
それで何も、文句は言えなくなる。ドキドキして黙り込むだけでいっぱいいっぱいだ。
たまにしか見られないその表情に、甘い自覚はあるのだが。
『ますたー、もうすぐだよー』
下から脳天気な声がする。ブリジットは慌てて気を引き締めた。
ブルーは少しずつ速度を落としていって、やがてゆっくりとその足を止めた。
乗るときと同じくしゃがみ込んでくれたブルーの背中から、ユーリに続いてブリジットは下りる。
「メイデル伯爵家の領地はこのあたりだな?」
確認され、周囲を見回しながら頷く。
たぶんブリジットが気絶している間に、ユーリが細かくブルーに方向を指示をしてくれていたのだろう。
遥かに見える稜線は、そのほとんどが群青色の空の中に溶け込みつつある。
空と月の位置から見るに、出発から二時間ほども経っていないようだ。
生ぬるい風には、独特の甘い果物の香りが漂っている。
果物やナッツの果樹園が広がる中、目の前の丘の上には見覚えのある伯爵家の別荘があった。
領主の持ち物である別荘の周りには、建物は少ない。領民たちの暮らす民家は、森の近くに点在しているのだ。
人の姿は見当たらず、秋の虫がさざめく声だけが夜の帳を彩っている。
「さすがフェンリルね。こんなに早く到着できるなんて」
『ふんっ、そうだろ? まぁ、ブスがもうちょっと軽かったらもっと早く――』
生意気を言うブルーのほっぺを、ブリジットは両側に向かってみょーんと伸ばした。
アホ面である。フフ、と笑っていると。
『にゃにしゅるんら!』
「ぎゃ!」
容赦のない反撃に遭った。ブルーが顔面に砂をひっかけてきたのだ。
取っ組み合いの喧嘩でも始める勢いのひとりと一匹だったが、「静かにしろ」と鋭くユーリが注意を飛ばした。
「メイデル伯爵夫人は、別荘のほうに居ると思うか?」
怒るブルーを押し留めているユーリに確認され、ブリジットは別荘を見上げた。
「……明かりが灯っていませんから、考えにくいと思います。それに母は屋敷内でも、蝋燭の炎すら嫌がっていたようですわ」
家屋の中に居ないとしたら、候補となる場所は限られる。
「近くの森の中かも。わたくしが幼い頃は、よく母と一緒にこのあたりの森を散策したんです」
それから小声で付け足す。
「一度だけ、夜に迷い込んで……迷子になって、叱られたこともありますが」
「昔からじゃじゃ馬なのは変わらないな」
その通りなので悔しいが言い返せないブリジットである。
「何か、メイデル伯爵夫人の私物は持っていないか?」
「私物、ですか?」
「ブルーの鼻なら、夫人の臭いを辿って追えるはずだ」
ブリジットはちょっぴり悔やんだ。それなら、アーシャの私物を何か持ってくれば良かった。
そこで思い出したのが、アルプの毛である。発見したとき、念のため手巾に包んでいたのだ。
「これはどうでしょう?」
ブルーが寄ってきて、手巾の上でぴくぴくと鼻を動かす。
『うえっ。なんかいやな気配、感じるんだけど』
「我慢しろブルー」
『はぁい……』
頑張って臭いを嗅ぎ終えたブルーが、森の方角に向かって歩き出す。
ユーリとブリジットは顔を見合わせ、頷き合った。
「とりあえずついていってみよう」
「分かりました」
ふんふんと鼻を鳴らして地面を嗅ぎながら、ブルーが進んでいく。
星明かりだけに照らされた森の中は暗く、不気味でさえあった。
昼間とはかなり印象が違う。しかしそんな様相を、小さい頃に一度だけブリジットは目にしたことがある。
(小妖精たちが泉のほとりで宴会をするって教えてもらって、参加してみたくなって……)
夜になってから別荘を抜け出し、ひとりで森に入ったあのときのことだ。
結局、泉まで辿り着けずに泣き喚いていたら、母が捜しに来てくれて――。
たくさん叱ったあと、母は思いっきり抱きしめてくれて、最後は手を繋いで別荘に戻ったのだ。
だが、母は微精霊と契約したブリジットのことを心底恨んでいたはず。
ロゼとは一度も別荘に行っていないようだったし、そんな母にとって、この森に大した思い入れがあるとも思えない。
それなのに。
なぜかブリジットは、アーシャはこの先に居るような気がしていた。
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