第94話.アンシーリーコート
伯爵夫人らしく、上品だが落ち着いた内装の部屋だ。
必要最低限の家具と調度品だけが並ぶベージュ色の部屋を、ブリジットは見回した。
母が居なくなったのは三日前。
まだそこまで長い時間は経っていないはずなのに、なぜか古い化石を目にしたような気分に陥る。
(……生活感が、あまり感じられない?)
様子がおかしい母は、父によって屋敷内に留め置かれていたという。
つまり、ここで多くの時間を過ごしていたはず。だのに、この部屋には人の気配が希薄だった。
「ここ最近の義母は、本当に調子が悪そうで……ほとんどこの部屋にも出てこないで、奥の寝室でばかり過ごしていたんです。おれも最後に顔を見たのは、五日前でした」
それならば、この部屋の異様な空気にも納得がいく。
「じゃあ、寝室から調べてみましょうか」
いつまた他の使用人に見つかるか分からないし、次も執事長のように見逃してくれるとは限らないのだ。
ゆっくりと調べ上げる時間がない以上、怪しいところから確認したほうがいい。提案すると、ロゼも同意してくれた。
部屋の奥側にはもうひとつドアがあり、その先は寝室へと繋がっている。
父と母の寝室は別々なので、置かれたベッドはひとり用のサイズの物だ。
上級貴族の家では特に珍しいことではないが、それにしても両親はあまり親密とは言えない関係の夫婦だったのだと今では思う。
寝室の中は薄暗く、どこか冷たい空気が満ちていた。
カーテンは少し開いていて、そこから夕日が射し込んでいる。
「一応、部屋は三日前のままにしてもらっています。何か手がかりがあるかもしれないと思って」
「分かったわ」
ロゼと話しながら、寝室内に踏み出した瞬間だった。
腰にある右側のポケットが、ぶるるっと大きく震えた。ブリジットの契約精霊が丸まっているポケットである。
「ぴーちゃん?」
呼びかけるが、返事はない。
それきりポケットは静かになってしまった。
(あら?)
答えないなんて珍しいと思ったが、今はぴーちゃんだけに構っているわけにもいかない。
宥めるようにぽんぽん、とポケットを軽く叩いて、さてと寝室内を見回す。
するとロゼが素早く『ファイア』の魔法を唱え、壁際にある二つの燭台に火を灯してくれていた。
「ありがとう」
「いえ、大したことじゃ」
ブリジットはまだ小さな炎を出すのに慣れていないので、とても助かる。
さっそく探索に移ろうとしたところで、ふと気がついた。
「その蝋燭、どちらも新しいのね」
「え? あ、そうですね。そういえば母は、蝋燭の火を灯すと怒るのだと侍女がぼやいていました。だから最近は使ってないのかもしれません」
「怒る? どうして?」
ロゼが首を捻る。侍女の話を思い出そうとしているのだろう。
「確か、『会えなくなるからやめて』というようなことを怒鳴るのだとか……」
(会えなくなる?……もしかして)
ひとつの予感が、ブリジットの胸に芽生える。
ブリジットは窓に駆け寄った。
まず、窓枠や硝子に何か付着していないか調べてみる。しかし特に気になるものはなかった。
ロゼも不思議そうにしながら、同じように脇台やランプを見てくれている。
彼の隣をすり抜けて、ブリジットは次にベッドを調べてみた。
掃除をしていないということは、母が失踪した当時のままなのだろう。
乱れているベッドシーツを、じっと観察する。そうしていて、気がついた。
「あっ」
母の枕についていた毛を、指先で抓む。
長くて白い毛だ。横から首を伸ばしてきたロゼが、訝しげに呟いた。
「犬の毛でしょうか?」
ブリジットもそう思いかけるが、途中で気がつく。
以前、ニバルの実家の経営する御料牧場に遊びに行ったとき、何匹かの牧羊犬と戯れる機会があったのだ。
そのとき撫でた毛とは、印象がだいぶ違う。
「いいえ。犬の毛よりもっと細いと思う」
そして先日、神殿を訪問した際は、トナリの契約精霊である猫の姿をした精霊――ケット・シーを目にしている。
「これ、猫の毛だわ」
確信を持つブリジットに、ロゼはきょとんとしている。
母の寝室に白猫が侵入したからといって、何がそんなに重要なのかと思っているのだろう。
しかしブリジットの予想が当たっていれば、それはただの猫ではなかったのだ。
「たぶん、母が姿を消したのはアルプの仕業よ」
「……アルプ、ですか?」
聞き覚えのない名らしく、ロゼが眉を寄せている。
「アルプは
「猫……!」
ロゼがはっとする。
「もしアルプが屋敷内に忍び込んでいたなら、お母様の奇行にも説明がつくの。独り言を言っていたんじゃなくて、お母様はアルプに話しかけていたんだわ。屋敷内を彷徨っていたのは、アルプに幻でも見せられていたのかも」
アルプは特別な帽子を持っていると言われる。
それは姿を隠したり、人の心に取り入ったりといった、アルプの能力を発揮するのに必要なもの。
その帽子を使えば、アーシャ以外の人間からは姿を隠し通せたはずだ。
「すごい……」
ブリジットの推測を聞き終えると、惚けたようにロゼが呟く。
え? とブリジットは目を丸くした。
「少ない情報から、それだけのことを分析してしまえるなんて。あ……、ブリジット先輩は本当に、とびきり優秀な方なんですね。驚かされました」
「ちょ、ちょっと。大袈裟よロゼ君!」
「いえ。むしろ誇ってもらいたいくらいです」
(誰かに買収されてる……!?)
ロゼが真顔で褒め称えてくれるので、思わずブリジットはろくでもないことを考えてしまう。この純朴そうな少年を傷つけそうで、さすがに口にはしなかったが。
――実際に、ロゼの言う通りブリジットの精霊に関する知識は人並み外れている。
特に
ブリジット本人は精霊博士を目指しているため、それを誇ることはしない。そもそも、必要な知識であるために特別なこととは思っていないのだ。
だがそれこそ、彼女の能力が優れている証明だった。精霊の名前さえ分かれば、それが解決の糸口となるのだ。
「でも、おかしいわね。アルプが屋敷内に這入っていたなんて大事だわ」
気恥ずかしくて話を変えたいのもあり、ブリジットはそう口にした。
というのも、それも重要なことだ。ロゼも真剣な顔をして聞き入っている。
「小さい頃に聞いたことがある。この屋敷の敷地内には悪いものが這入り込めないよう、結界を張っているって。それにこの家には、イフリートの契約者であるお父様とロゼ君が居るのに」
ここは名高き炎の一族の家なのだ。そう簡単に
ブリジットの過ごす別邸にも、敷地内の炎の気が強いためにあまり野良妖精は寄りつかない。庭師のハンスがトネリコの木をたくさん埋めてくれたから、ようやく遊びに来る小妖精が居るくらいだ。
「いえ、そもそも……お母様の契約精霊であるサラマンダーは、どうして契約者を守らなかったの?」
(中級炎精霊のサラマンダーなら、アルプがお母様に取り入る前に、追い返せたはずなのに……)
考え事に没頭するあまり。
ブリジットは話の途中、ロゼの表情が重く軋んだのには気がつかなかった。
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