第93話.あの日を知る人
記憶の中の容貌と少しも変わらない使用人と、呆然としたままブリジットは向かい合う。
いや、やはり少しだけ老けたし、痩せただろうか。それは当然で、ブリジットが彼に世話されていた頃から、既に十一年もの年月が流れているのだ。
(――って、いけない!)
ぼんやりしている場合ではない。ぐるり! とブリジットは後ろを向いた。
さりげなさを装って、廊下に置かれた花器の位置を調整している振りをする。
花器には赤や白、ピンク色といった色とりどりの薔薇が活けられている。本邸の庭には見事な薔薇園があるので、そこから選んだものだろう。
「あっ、えっとご苦労様!」
冷や汗流れるブリジットの背中を隠すようにして、ロゼが立ち塞がる。
そんなロゼの肩越しに、ブリジットは鋭い視線を感じた。間違いなく気づかれている。
(でもここで、追い返されるわけにはいかないもの!)
まだ母について何も調査できていないのだ。
カクカクとぎこちなく両手を動かしつつ、棘の抜かれた薔薇を持ち上げたり、持ち下げたりするブリジット。
先々代からメイデル家に務めてくれている彼は、数年前に執事長に昇格されたのだとシエンナがこっそりと教えてくれた。
不審者――この場合はブリジット――を発見した時点で、早急に屋敷から追放するのもその役目。忠誠心のあつい彼を、言葉で説得するなんてまず不可能である。
緊張感のまっただ中、黙っていた執事長が静かに口を開いた。
「……坊ちゃま。どうされましたか?」
「今日の課題に行き詰まってね、何か閃くかなって屋敷内を散歩してるだけだよ」
ロゼの躱しにブリジットは感心した。彼は自分よりもよっぽど口が回るようだ。
それを聞きながら花器を上げ下げする。もう他にやることが見つからない。花台を拭く布巾でも持参すれば良かった。
だが、上手なのはやはり執事長だった。
ふむふむと頷いた彼は、きれいに生えそろった髭を撫でると。
「左様でしたか。わたくしとしたことが……、見かけぬ侍女を連れて人気のない場所に向かわれている最中かと、邪推してしまいました」
「えっ!?」
ロゼが度肝を抜かれた様子で叫んだ。
まさかこんなところで、逢い引きの疑いをかけられるとは思っていなかったのだろう。強張った顔が見る見るうちに赤くなっていく。
その様子はつるつるに光る硝子の花器に映り込んで、ブリジットにもよく見えた。一緒に映る執事長はといえば、幼いロゼの挙動に口元を僅かに綻ばせている。
(完全にからかわれてるわ、ロゼ君!)
助け船を出したいところだが、ここでブリジットが口出ししてはロゼが庇ってくれた意味がなくなる。
葛藤しているらしい呻き声のあと、ロゼが小さく顎を引いた。
「えっと……あの、この件は父上たちには内密にしてほしいんだけど……」
「いいえ坊ちゃま。わたくしめは何も聞いておりませんし、見ておりませんので」
ロゼが胸を撫で下ろす。
「ああ、それと鍵は早めに戻していただけると助かります」
そして噎せていた。気の毒すぎる。
(人が悪いわよ、じい!)
見逃してくれる代わりの勉強代ということなのか。
振り返ったブリジットがじっとりとした目つきで睨んでいると、目の合った執事長が眉を下げた。
その苦い笑みが、どこか嬉しげに見えるのは気のせいではないだろう。
「相変わらずお転婆ですな、お嬢様」
思わず、ブリジットは唇を尖らせる。
ここまで来て、下手な小細工は通用しないだろう。ロゼには申し訳ないが、素直に返すことにした。
それにブリジットだって、久しぶりに彼に会えて嬉しかったから。
「……じいも元気そうで、何よりだわ」
「はい。あちこち、がたは来ておりますがね」
肩を回してみせる執事長と、怒った顔を作ったブリジットをロゼが交互に見遣っている。
「先日、旦那様が別邸に向かわれたそうですね。本日はその件でいらっしゃったのですか?」
ロゼは黙ったままだったが、表情に動揺はない。
デアーグがブリジットの精霊であるフェニックスを欲していることは、ロゼも知っていたらしい。
どう答えたものか悩んだが、ブリジットは首を横に振った。
「いいえ。わたくしはお母様のことを調べに来ただけよ」
「なんと。奥様の……」
「じいは、お母様の行き先について何か心当たりはない?」
「……いいえ、わたくしめは何も。お役に立てず申し訳ございません」
少し歯切れが悪かったが、執事長が答える。
そう、とブリジットは頷いた。やはり、部屋を調べるのが手っ取り早いのだろうか。
胸に手を当てて頭を下げると、執事長は立ち去っていった。
背筋の伸びた背中が見えなくなってから、ブリジットはロゼに訊いた。
「じいが出てきたのは、ロゼ君のお部屋なの?」
「いえ。おれの部屋はその隣です」
ちょっと疲れた顔をしていたロゼだが、すぐに答えてくれる。
なら、執事長が手ずから掃除していたのはいったい誰の部屋なのか。疑問に思ったのが顔に出ていたのか、ロゼが小さく微笑む。
「ここは今も、あ……ブリジット先輩のお部屋ですよ。じいが毎日のように、掃除や手入れをしているんです」
「――――、」
その言葉に、ブリジットは一瞬だけ呼吸を止める。
――十一年前。
父によって、燃え盛る暖炉に左手を入れられたあの日。
少なくはない使用人が、ブリジットのことを庇ってくれた。当時は執事のひとりだった彼は、その筆頭だった。
デアーグの行いを止めようとして殴られた顔は、神官の治癒魔法によって既に完治しているけれど。
(恨まれてもおかしくないと思ってたのに……)
それなのにこうして、いつかブリジットが帰ってくるかもしれない場所を守ってくれていた。
大切にしてくれていた。その気持ちが、泣きたいほどに胸に染みる。
それと同時に、気がついた。
(じいなら知っているかもしれない。あのときのことを)
どうしても、ブリジットの記憶は朧げな部分がある。
幼い日のことだから、というだけではない。強い恐怖に彩られた記憶からは、細かなところが抜け落ちているのだ。
別邸付きの使用人たちは、本邸では実力を評価されず窓際の仕事ばかり振られていた。
だから誰もあの日の詳細を知る者は居なかったが、デアーグの傍に控えていた執事ならば、ユーリのことを覚えているのではないだろうか。
どうしてユーリがあの日、応接間に居たのか。
そこで泣き叫ぶブリジットの右手を、握ってくれたのか――。
「部屋、見ますか?」
ロゼがおずおずと訊いてくる。
ブリジットはほんの僅かに逡巡した。しかし結局は、首を横に振っていた。
「いいえ。今はお母様のことを優先しましょう」
(自分のことやユーリ様のことは、あとにしないと)
そうしないと、たぶん動けなくなる。
母の行方を追うどころではなくなる。それだけは避けたい。
「分かりました」
ロゼもそれ以上は何も言わなかった。深く詮索しないでくれるのがありがたい。
二人で廊下を進んでいく。
そのあとは幸運なことに誰ともすれ違わず、廊下の奥にある母の私室の前に着いた。
ブリジットの母親――アーシャ・メイデルの部屋。
閉ざされたドアの鍵穴に、ロゼが取り出した鍵をゆっくりと差し込んだ。
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いつもありがとうございます。
発売日が10日後に迫ってまいりましたので、発売記念カウントダウン企画として、本日より「10話連続更新」がスタートとなります!
近況ノートにて特典情報等も公開させていただきますので、ご覧いただけたら幸いです。
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