第91話.居なくなった母
(終わったー!)
答案用紙の回収が終わると同時、ブリジットは小さく伸びをした。
筆記試験――魔法基礎学、魔法応用学、精霊学の三科目の試験日程が終わったところだ。
ユーリのことを考えないように毎夜の勉強に励みながらも、休憩時間にユーリに贈るマフラーを編むという複雑な毎日ではあったが、その結果なぜかいつも以上に集中できた気がする。
(自分でいうのもなんだけど、今回はかなり自信があるかも!)
今度こそ、ユーリに勝てたのではないだろうか。
(いや、勝つ! 今度こそ勝つのよ、ユーリ様に!)
気がつけばユーリのことを考えつつも、わくわくしながら終礼を終える。
午後の授業はないので、早めに家に帰って自己採点しようかと考えていると。
「ブリジット様……。だ、駄目でした……」
普段より覇気のない顔つきのキーラが、よろよろと近づいてきた。
その顔と口ぶりから察するに、今回のテストも絶望的だったようだ。
『ぴー! ぴっぴ!』
その瞬間、胸ポケットから「待ってました!」とばかりにぴーちゃんが飛びだしてきた。
こら、と頭をつついて注意するブリジットだが、ぴーちゃんは楽しげに囀っている。
キーラは恨みがましい目でぴーちゃんを見ている。しかし今日ばかりは言い返せないようだ。
「キーラさん。そんなに落ち込むことないわよ」
「でも、せっかくブリジット様に教えていただいたのに!」
わっと顔を覆うキーラ。
その後ろからやってきたニバルが言う。
「おい、俺もちょっと教えただろ」
「ブリジット様が、手取り足取り教えてくださったのに!」
「おい無視か。っと、そんなことよりブリジット嬢。客人が来てます」
「え?」
(もしかしてユーリ様!?)
ブリジットはどきりとしつつ、ニバルの指差す教室の後ろ扉を見遣った。
しかしそこで待っていたのは、思いがけない人物で。
「ロゼ君?」
目が合うと、ロゼは丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。あ……ブリジット先輩」
「どうしたの? 二年生の教室まで来るなんて」
今日、一年生は五科目の授業がある。今は昼休憩中だろう。
しかし一年生の教室がある西棟から、この東棟まではそれなりに距離もある。
「少し、訊きたいことがあって……」
言いにくそうにしながらも、ロゼがブリジットを見つめる。
「つかぬことをお伺いします。ブリジット先輩は、
ブリジットとロゼは、東棟の裏庭にあるベンチ付近までやって来ていた。
ちょうど三週間前、ニバルとユーリそれぞれから舞踏会に誘われたところだ。
場所を変えようと提案したのはブリジットだ。
教室で聞くべき話ではないと判断したからだった。ロゼは大人しくついてきたが、ブリジットが隣に座るとやたらそわそわしていた。
「それで、詳しい話を聞かせてくれる?」
しかしそう訊くと、表情を固くする。
「義母の行方が分からないんです。三日前から姿を消してしまって」
よくよく見れば、ロゼの目の下にはくまがある。
彼も大事な筆記試験の前だったのに、もしかしたら寝る間も惜しんで母のことを捜していたのだろうか。
それで気がつく。彼がわざわざ昼休憩の時間に来たのは、きっとブリジットの試験が終わるのを待っていたからだ。
母のことを不用意に話して、ブリジットが試験に集中できなくなるのを避けるために。
(優しい子なのね……)
そんな彼の思いに応えたい、という気持ちは少なからずあったが。
「ごめんなさい。わたくしに心当たりはないわ」
「そう、ですか」
ロゼが眉を下げる。
落胆しているというより、どこか申し訳なさそうだった。
「でも、どうしてわたくしに?」
ブリジットは躊躇いつつもそう訊いた。
もう十一年間、ブリジットは母に会っていないのだ。
そんなブリジットが母の行き先を知っていると、ロゼが思ったのが不思議で――しかし考えてすぐ、気がついた。
「あっ。もしかしてわたくしが母に危害を加えたと思って……」
「え?……え!? ち、違いますよ!」
焦ってロゼが立ち上がる。頭をハンマーで殴られたような顔をしている。
あまりにも劇的な反応を受け、なんだかブリジットも慌ててきてしまった。
「ご、ごめんなさい。いやな言い方をしちゃった」
謝ると、ロゼは「いえ……」と、ますます縮こまってしまった。
再びすとん、とベンチの上に座る。初秋とはいえ風は冷たく、二人の間を隙間風が無造作にすり抜けていく。
「おれは、義母のことはよく分からなくて」
やがて、小さな声でロゼが話しだした。
「おれがメイデル家に引き取られたときは、既に……義母は寝ているか、うろうろと屋敷内を歩き回っている人で。夜もあまり眠れないみたいで、母の寝室から誰かと話してるみたいな声が聞こえるって、よく侍女たちが不気味がっていました。父はそんな母を外に出せないからと、屋敷内に留めていました」
それは初めて聞く、ブリジットが別邸に移されたあとの話だった。
そして思いがけない内容でもあった。てっきり両親はブリジットが視界から居なくなって、楽しく暮らしているとばかり思っていたのに。
「でも、元気なときもあるんですよ。そういうときは、あ……、ブリジット先輩のことを話しました」
「わたくしのこと?」
はい、とロゼが微笑む。
話の内容を聞こうとして、ブリジットは何も言えなくなる。
その照れくさそうな微笑は、少なからずブリジットに好意的なものだったからだ。
(お母様が、わたくしのことを話してた? でもお母様は……)
――『ねぇブリジット。どうしてあなたは、もっと頑張れなかったの?』
そう静かに責め立てる声が、今も鼓膜に焼きついている。
虚ろな硝子玉のような瞳。重苦しい溜め息。
抱きしめる腕は冷たく、ブリジットが凍えればいいと願うようでさえあった。
――『どうして、あなただけが駄目な子なの? 私が……悪かったの? 私がいけないの?』
繰り返す母に、幼いブリジットは泣きながら謝ることしかできなかった。
家族だったはずの人たち。
でも今は何も分からない。何も知らない。
それが歯痒いような、怖いような、不安定な気持ちになる。
この場にユーリが居れば、そんな行き場のない思いを口にできたかもしれない。
でも目の前に居るのは、義母の行方を気にして不安がっているロゼなのだ。ブリジットが弱気な顔を見せるわけにはいかなかった。
「……お父様は、お母様についてはなんて?」
そう問うと、明るかったロゼの顔が一気に暗くなる。
「
「…………!」
家族を顧みる人ではないと分かってはいたが、それでもロゼの言葉は衝撃だった。
そのせいで、ロゼはたったひとりで母のことを捜していたのだ。
迷った末に、ブリジットはこう言い放っていた。
「分かったわ。一緒にお母様の行方を捜しましょう」
ロゼがぱっと顔を上げる。
期待の色に、灰色の瞳が輝いている。
「手伝ってくださるんですか?」
「そんな顔をした人のこと、放っておけないもの」
そんなことを言っても、ロゼを困らせるだけだろう。
「ありがとうございます……!」
「まずは屋敷に入って、調査をしましょう。母の行方の手がかりがあるかもしれないから」
「でも、ブリジット先輩はどうやって……?」
ロゼが困惑するのも無理はない。
本邸を追いだされたブリジットが、我が物顔で屋敷内をうろつくことはできないからだ。
「ロゼ君はとにかく午後の試験を乗り切って。本邸の裏口前で待ち合わせましょう」
どうにか笑みを浮かべて、ブリジットは言ってみせた。
「わたくしは、その間に必要な準備を進めておくから」
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