第87話.終わらない言い合い
どうやら扉の向こうでは、ロゼとサナが話しているらしい。
ロゼは声を潜めているのか、あるいは無言なのだろうか。
彼の声は聞こえず、まくし立てるように話すサナの声ばかりがよく聞こえる。
「オーレアリス様は納得だよ。ちょっと怖いけど優秀な方だもの。でも"赤い妖精"は名無しと契約したって言われてたのに、本当はフェニックスの契約者なんておかしいよね? 何か邪な手を使ったのかも」
(邪な手って)
それを聞いたブリジットは思わず苦笑いしてしまったのだが。
「……あの人は、そんな人じゃないよ」
喋り続けるサナの声を遮るように、誰かがそう言った。
しかしそれが誰なのか、考えずとも分かっている。
(ロゼが、私を庇ってくれた?)
でも、と思う。
自分たちは書類上は家族だが、まともに会話したことは一度もない。
同じ家に住んだこともないのだ。だから、ロゼがそんな風にブリジットを庇い立てしてくれる理由が分からなくて。
もう少しロゼの声をよく聞こうと、扉に顔を近づけようとする。
「……おい」
ユーリが少し、声を上擦らせた。
そういえば彼に腰を抱かれ、密着したままだった。
あっ、とブリジットが思いだしたときには、既に遅く。
――バッターン! と。
ユーリを巻き込んで、ブリジットは床の上に勢いよく倒れ込んだ。
ほとんど抱き合うような体勢だったのを失念して、思いきり前に踏みだしてしまったからだ。
「ご、ごめんなさっ……」
だが謝罪の声は、最後まで形にはならなかった。
なぜなら、ユーリを押し倒したような格好で、その両腕に抱き留められていたからだ。
ブリジットの身体にほとんど痛みがないのは、ユーリが守ってくれたからだろう。
それは分かる。本来ならお礼を言うべきだということも。
でも。でも――、
(ち、近いっ……!)
青い髪を乱れさせたユーリは、しかめっ面で目を閉じている。
いたい、と彼の薄い唇が、無声音で動いている。その吐息が口端を掠めて、背筋がぞくりとした。
唇同士が触れそうなほど近いことに、たぶんユーリは気がついていない。
「っ誰か居るんですか?」
室内から焦ったような声と、物音がする。
まずい、とブリジットも慌てた。
神殿で、同級生の男子と折り重なって倒れている――なんて、見られたらどう言い訳すればいいのか。
転んだところを助けてもらいました、と素直に説明しても、ロゼやサナが納得してくれるとは限らないのだ。
「ブルー」
しかしパニック状態のブリジットと裏腹に、ユーリは冷静だった。
短く、虚空に向かって呼びかけて契約精霊を呼びだす。
人間界に降り立った氷の狼は、颯爽とブリジットの後ろ襟を噛んで持ち上げた。
(ぎゃっ)
文句を言う暇もなく、そのままブルーによってブリジットは廊下の角へと引きずり込まれた。
ほぼ同時に、扉が開いた音がする。
「え? オーレアリス様っ……?」
最初に聞こえたのは、驚いたようなサナの声だ。
ようやく身体を起こしたブリジットは、ちょこんと隣にお座りをしたブルーと目が合った。
凍りついた湖面のような毛色をした美しい狼は、濡れた鼻をふんっと鳴らしている。
『まったく、相変わらず世話の焼けるやつだなぁ』
「ご、ごめんなさい……」
ユーリの判断の早さには感服するしかない。
あのままの体勢で扉が開いていたらと、想像するだに恐ろしくなる。
(って、そうだわ。ユーリ様は!?)
ユーリも地面に転倒したままになっているのでは。
呆れ顔のブルーに見守られつつ、廊下の角からブリジットは首だけを出して確認する。
角度的にロゼはサナとほとんど被っているが、ユーリとサナの横顔はよく見えた。
「オーレアリス様、大丈夫ですか? すごい物音がしたような……」
「ああ、近くで音が聞こえたな。それで僕も様子を見に来たんだが」
(すごいわユーリ様。まったく動じていないし、顔色も変えずに嘘を吐いてる!)
しかもポーズは仁王立ちだ。
ブリジットが居なくなった直後に起き上がって、髪を整え、服の埃もさっさと払ったのだろう。
一糸乱れぬ青年に見下ろされ、サナは少々狼狽えているようだった。
「ところで、オトレイアナの生徒が隠れて他者の悪口とは感心しないな」
「!……すみません」
ロゼの謝る声が聞こえ、続けてサナも頭を下げている。
遠目でも分かるほど、サナの顔色はすっかり青ざめていた。まさかユーリに聞かれるとは思っていなかったのだろう。
「ご、ごめんなさい。私、神官の方に呼ばれてたんでした……」
ぼそぼそと口にしながら、ユーリの前を横切って部屋を出て行く。
ブリジットは身体を強張らせたが、サナは反対方向へと逃げるように走り去ったのでほっとした。
これで一応は、一件落着だろうか。
そう思ったが、ロゼとユーリは向かい合ったまま微動だにしない。
不思議に思いつつ見守っていると、沈黙が苦しかったのか、ロゼが遠慮がちに口を開いていた。
「オーレアリス先輩は、あ……ブリジット先輩と、仲がいいんですか?」
何か言い淀みながらも、ロゼが問いかける。
ブリジットは目をしばたたかせた。ロゼがそんなことを気にするのが意外だった。
ユーリも同様だったのか、意味を問うような目でロゼのことを見返している。
薄い灰色の瞳を彷徨わせつつ、ロゼは問いの理由を口にした。
ちょっぴり気まずそうに。
「さっき、手を繋いでいたので……」
(見られてた――!)
なんだろう。なぜかものすごく気恥ずかしい。
隠れたまま赤面するブリジットを、ブルーが気味悪そうに眺めている。
「なんだ。羨ましかったのか?」
「えっ!」
ユーリに訊かれたロゼが、ぎょっとしている。
彼は思わずといった様子でウェーブがかった髪の毛をかいていた。
「……そうではなくて。ただ、ブリジット先輩のことをよく知っているのかなと」
「先ほどの口ぶりからするに、お前こそブリジットのことを知っていそうだったが」
ユーリに淡々と言い返されたロゼの表情が変わった。
急にどこか、怒っているような――険しい顔つきになる。
「おれは、……だけど、本人とは話せる立場じゃないから」
しかし数秒後に「あっ」と口元を押さえると。
「すみません。関係のないオーレアリス先輩に八つ当たりのような態度を取ってしまって」
「――――は?」
次はユーリのまとう雰囲気が一変した。
目つきが剣呑さを増し、空気が一気に尖りを帯びる。
久しぶりにブリジットは思いだす。その冷徹さから、ユーリが"氷の刃"と呼ばれていることを。
相対するロゼこそ、鋭敏に変化を感じ取ったのだろう。
肩が強張り、明らかに顔が緊張している。
しかしロゼの言葉の何が、ユーリの逆鱗に触れたのか。
考える前に、ユーリは舌打ちせんばかりの口調で言い放っていた。
「それなら、ブリジット本人とさっさと話せばいいだろう」
(ユーリ様!?)
いったい何を言い出すのか。
さすがにロゼも「ええっ?」と声を上げている。そりゃそうだと思う。
「無理です。おれ、絶対嫌われてると思うし……」
「それも本人に聞いたらどうだ。僕は知らない」
「聞け話せって簡単に言いますけど、家庭の問題ですから」
「それなら僕に聞くな。うじうじと鬱陶しいな」
『……これ、まだ続くのか?』
はらはらするブリジットの後ろで、ブルーが暇そうにぼやいていた。
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