第86話.不用意な接近

 


(私を引き込んだ人間は、次の大司教になれる……?)


 トナリの言葉は唐突で、ブリジットはしばらく沈黙してしまった。


「それは、わたくしがフェニックスの契約者だからでしょうか?」


 冷静に問えば、トナリは頷いた。


「お前さんの契約精霊であるフェニックスは、それだけレヴァン総本山で重視されている。それこそ神サマみたいな扱いを受けてる精霊だ。フェニックスの力があれば、神殿内の勢力図はたちまち変わるだろう」

「そんな……」

「今の大司教はまとも寄りだから、そういう心配はないかもしれないが……いや、そもそも神殿に留まる話じゃないな。フェニックスを使って、世界を取ろうとする輩が出てきてもおかしくない」


(せ、世界?)


 ブリジットは口をぽかんと開けてしまう。


 レヴァン教とは、精霊を信仰する集団のことだ。

 そんな彼らが絶対的な信仰対象として崇め、象徴としている精霊が、不死であるとされるフェニックス。

 数百年前から、その神々しい姿を垣間見たという者が各地に現れ、伝聞と共にその名は世界中に伝わってきた。


『風は笑う』にて細やかに姿形が語られたことも、フェニックスは存在するという風説を広げるのに一役買ったのだが――。


(ぴーちゃんによって、フェニックスの実在が証明された……)


 理屈は分かる。

 今日、神殿内でいろんな神官ににこやかに話しかけられた原因もそこにあるのだろう。


 だが、それにしたってあまりにも規模の大きい話で、ブリジットはぼんやりしてしまう。

 そのとき、それまで黙っていたユーリが口を開いた。


「それなら心配ない」


 その言葉に驚き、ブリジットはすぐ隣を見つめる。

 ユーリはこちらを見ないまま、はっきりと断言してみせた。



「僕がブリジットを守るからだ」



(…………へっ)


 そのまま、ブリジットはきれいに固まった。


 整った、鮮烈でさえある横顔には一切の迷いがない。

 そうするのが当然だというように、平然と腕組みしているユーリに、何をどう突っ込めばいいかも分からなくなる。


 そのままブリジットがカチーンと硬直していると、トナリが呆れたように息を吐いた。


「守るつったって……一生は無理だろ? 坊ちゃんも嬢ちゃんも貴族だ。いずれは結婚だってするだろうよ」


 そこでトナリが、何か思いついたように「あ」と呟いた。

 特に他意はない様子で、彼は柏手を打つ。


「それともあれか。そういうことか。あんたら二人が結婚すれば――」

「きゃあああああっ!?」


 何やらものすごくとんでもない発言が飛びだす予感がして。

 トナリの言葉を遮ってブリジットは悲鳴を上げた。ほとんど反射的にだった。


 うるさそうに顔を顰めるユーリの、その腕を力任せに取る。

 やはりそんな真似も、平常心であればできるはずないのだが、今はもうそれどころではなかった。

 もちろん、ユーリの顔を確認する余裕もない。


「ユーリ様、ユーリ様ユーリ様! そろそろ神殿の他の場所も巡ってみませんか!?」

「なんだ、急に」

「わたくし、まだまだいろんな場所を見て回りたいんですの!」


 熱心に縋りついてそう訴える。

 ユーリは黙ったままだが、このまま押し切るより他にない。


「それではトナリさん。すみませんがわたくしたちは」


 断りを入れようとしたら、トナリは既に寝ていた。

 再び噴水の縁に寝転んで、ぐーすか言っている。


(なんて自由な人なのかしら……)


 本音を言えば、もう少し精霊博士の仕事について聞いてみたかったのだが、背に腹は代えられない。


「それじゃっ、行きましょうユーリ様」


 ぐいぐいと腕を引っ張りながら、緑の回廊を抜けていく。

 そうすればまた元通りの、どこか無機質な建物内へと景色は戻る。


「ユーリ様は、どこか気になるところはありますか?」

「…………」


 なぜか答えはなかった。

 不思議に思ってブリジットが立ち止まると、一歩遅れてユーリも止まる。


 その弾みに、ようやく気がついた。

 毛足の短い絨毯に伸びた二人分の影が、ぴったりとくっついていることに。


「……あ、」


 ようやく、ブリジットは自分が大それた行動を取っていたと自覚した。


 ユーリとブリジットの身体は、他の誰も入り込める余地がないほどに密着していた。

 それもそのはずだ。彼の引き締まった腕に無遠慮にひっついて、両手を使ってしがみついていたのだから。


 しかし、これではまるで。

 ――まるで、恋人にしなだれかかって甘える少女のようではないか。


「しっ、しし失礼しましたわ! オホホ、わたくしったらなぜかしら、ちょっと慌てておりまして!」


 言い訳しながら、すぐさまブリジットは手を離した。

 恥ずかしくて、居たたまれなくて、顔は上げられない。

 だって無理やりくっついたりして、ユーリはすごく嫌な思いをしたのではなかろうか。


 そう思うのに。

 後ろに下がって距離を取ろうとする直前、伸びてきたユーリの手がブリジットのそれを絡め取る。


「えっ」


 驚いて肩を跳ね上げるブリジットをちらりと見遣りつつも、ユーリはやめなかった。

 そのまま、右手を握られる。


「握っていろと言ったのは、ブリジットだ」

「…………っ」


 息が詰まる。


(確かに、言ったけど!)


 ジョセフのことを殴ろうとするユーリに、『そんなことするくらいなら、ずっとわたくしの手を握っていてくれたらいいでしょう』と叫んだのは記憶に新しい。

 もしかしたら今後もずっと、ユーリはその話を持ちだすつもりなのだろうか。恥ずかしすぎて、こちらとしては堪ったものではないのだが。


「前にもお伝えしましたけどっ。あれはただ、勢い余っただけで……」


 しかし必死の抗議にも聞く耳持たず、指と指の間に長い指が侵入してくる。

 その力強さに驚いて、心臓が不規則に跳ねた。


 手を握る、などと生易しいものではない。

 ブリジットのことを頭から呑み込むように繋がれて、呼ぶ声さえも上擦る。


「ユーリ様……っ」

「ブリジット」


 彼の声さえも、掠れている気がした。

 見上げた黄水晶シトリンの瞳が、常よりずっと熱を帯びているように見えるのは、ブリジットの気のせいだろうか。


 そのまま、もう片方の手が自然とブリジットの腰に回される。

 ほとんど、ユーリに抱きしめられているような格好だ。この時点でほとんどブリジットはまともに呼吸ができていなかった。


(なんで、こんな。急に……)


 何か言わなければと思うのに、指先に少し力を込められるだけで身動きができなくなる。

 酸素不足気味の脳に、被さってきたユーリの声が伝わってきた。


「…………静かに」


(へっ?)


 ぱちぱちと瞬きした、一秒後だった。


「君も驚いたでしょ、ロゼ君」


 壁の向こう――すぐ傍の扉の中から、話し声が聞こえてきた。

 声には覚えがある。つい一時間ほど前に、聞いたものだったからだ。


 冷たい少女の声には、嘲りが含まれている。



「嫌われ者の"赤い妖精"が、まさか代表に選ばれるなんてね」



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