第85話.精霊博士との再会

 


 ブリジットが精霊博士に憧れるようになったきっかけは、『風は笑う』の物語だった。


 精霊博士リーン・バルアヌキと、彼の親友の契約精霊であったシルフィードが出会い、語り合うお話だ。

 リーンの親友は身体が弱く、あまり自由に動き回ることはできなかったらしい。

 だから彼の見舞いのたびに、リーンは人間の世界の話を、シルフィードは精霊の世界の話を、お互いに語って聞かせた。


 二人は半分ずつに砕いた魔石を分け合って、きっといつか、共に二つの世界を旅して回ろうと約束する――。


(その約束が実現したのかは、分からないけど……)


『風は笑う』に続編はない。

 著者であるリーンも、二十年ほど前から公の場から姿を消した。彼の居場所を知る者は誰も居ないから、まことしやかに「シルフィードによって異界に引きずり込まれたのではないか」と囁かれているのだった。


『ぴっ、ぴっ、ぴーっ』


 てちてち、と可愛らしい足音を立てて歩くぴーちゃんのあとを、ブリジットとユーリはゆっくりと追って歩いていた。


 神殿にやって来てから、ずっとポケットに隠れてもらっていたのでぴーちゃんはストレスが溜まっていたらしい。

 大量にすれ違う神官たちの姿が消えたとたんに勢いよくポケットから出てきて、外に繋がる回廊へと飛びだしていったのだ。

 追いかけてみてすぐ、ブリジットは目を丸くする。


「まぁ……」


 そこに待っていたのは人工の森だった。

 石畳で造られた道を囲むようにして、緑が生い茂っている。


 そよそよと風が流れるたび、枝葉が囁くようにざわめいた。

 木漏れ日に目を細めつつ見回せば、石畳の路の両側には透明な水が流れている。

 水でできたアーチは美しく、見上げれば青空を背景に伸びやかな虹が架かっていた。


 ブリジットは顔を綻ばせた。


(いろいろなことがあって、ずっと落ち着かない気持ちだったけど……)


 ジョセフに強い憎悪を抱かれていたこと。

 父に家に戻ってくるように言われたこと。


 もやもやとした感情が全て拭い去れるわけではないが、それでも少しずつ気持ちが静まってくる。

 その理由は、たぶん、隣に居てくれる人のおかげでもあった。


「綺麗ですわね」

「……そうだな」


 本当にそう思っているか定かではないが、ユーリが緩く相槌を打つ。

 そのまましばらく、二人で並んで歩いていく。ぴーちゃんは気にせず、少し前を進んでいっていた。


『ぴ?』


 そんなひよこ精霊が、ぴたっと足を止める。

 なんだろうと思って近づいてみれば……回廊の奥には立派な噴水があった。


 その噴水の縁に、危なっかしいことに誰かが横になっている。

 古ぼけた帽子で顔を覆ったその人物の格好には、見覚えがある。


「あっ」とブリジットは声を上げた。

 そこに居たのは、まさにブリジットの捜している人だったのだが。


「……寝てますわね」

「寝てるな。しかも、小妖精にたかられている」


 彼の言葉の通り、眠るトナリの身体の上には、可愛らしい妖精たちの姿がある。

 服の袖の中に入り込んだり、耳を引っ張ったり。好き勝手にやられつつ、トナリはむにゃむにゃと気持ち良さそうに寝言らしいことを言っている。


 たぶん、トナリにとっては珍しいことではないから、これくらいの妨害では目を覚まさないのだ。


(さすが精霊博士だわ。妖精たちに好かれている……)


 その様子をまじまじと見つめ、ブリジットは感心してしまう。


 メイデル伯爵邸は炎の気が強いらしく、力の弱い小妖精は避けることも多いのだ。

 庭師のハンスが別邸の庭にトネリコの木を埋めてくれたから、妖精たちがひっそりと集まることもあるのだが、ここまで大量の妖精が集まっているところを見るのは初めてだ。


 と、ブリジットに気がついた小妖精たちは慌てて散っていってしまった。

 ちょっぴり名残惜しい気持ちで居ると、むくりとトナリが身を起こした。


「ふわぁあ……あー、よく寝た」


 欠伸の弾みに、帽子が落ちて彼の顔を覆っている。

 その位置を片手で直したトナリの目が、ようやくこちらに向く。

 前に会った通りの野暮ったい無精髭を撫でつけながら。


「あれ、ブリジット。久しぶりだな」

「トナリさん、ごきげんよう」

「ああそうか、今日が学生招いての晩餐会の日だったか……?」


 不思議そうにしている彼がおかしくて、ブリジットは微笑んでいたのだが、仏頂面のユーリがそんな彼女の前に出る。

 まるで、トナリの視線から隠そうとするかのように。


「ユーリ様、どうされたんです。精霊博士相手に失礼ですわよ」

「……お前は警戒心が薄すぎる」


 ユーリの言葉の意味が分からず、ブリジットは首を傾げる。

 しかしトナリは気にせず、彼の足元に絡んでいるぴーちゃんを手の上に載せている。


「フェニックスも元気そうだな。僥倖僥倖」

『ぴっ、ぴ』


 答えるように一所懸命に鳴くぴーちゃんは、ちょっと嬉しそうだ。

 しかし次の瞬間、ぴーちゃんはびくっとお尻を揺らすと、大慌てでブリジットの胸元まで飛んできた。


 小さな羽毛の塊が、すっぽりとポケットに収まっていく。


「ぴーちゃん、どうしたの?」


 その理由は、一秒後に判明した。

 トナリの弛んだ服の中から、のっそりと這い出てきた黒い影があったからだ。


(ケット・シー!)


 黒猫の姿をした精霊が、黄金の瞳をキランと怪しく光らせている。

 中級闇精霊ケット・シー。人の言葉を操るのが得意で、知らない間に人の生活に溶け込むこともある精霊だ。

 飼っていた猫が突然、言葉を喋り出して窓から逃げていった、なんて話も昔はよくあったらしい。


 どうやらこのケット・シーが、トナリの契約精霊らしい。

 猫の姿形をした精霊は、黒い尻尾をゆらゆらと揺らしながらブリジットを見上げてきた。

 大きく開けた口の隙間から、鋭い牙が見え隠れする。


『おねえさん。何か持ってるね』

「え?」

『鳥の気配を感じるんだよね。隠してても分かっちゃうんだよね』


 ブリジットの制服の胸ポケットが、ぶるる! と大きく波打つように震えた。

 とたんにケット・シーが目を光らせる。


『やっぱり、そこに何か――』

「あーはいはい。やめろケット・シー」


 そこでトナリが、猫精霊の首を後ろからむんずと掴む。

 猫扱いされるのがいやなのか、精霊はむっと怒った顔つきをして暴れだした。


「フェニックスを食べたなんて知られたら、お前もオレも神殿を追われる身になっちまう」

『フェニックス? そこにフェニックスが居るのかい?』

「そうだ。さすがにやばいだろ?」

『何を言う。フェニックスを食べたケット・シーなんて、歴史に名を残しちゃうじゃないか』


 ケット・シーはそれはそれは嬉しげな顔をしている。

 ぼりぼりと頭を掻いたトナリが、初めてユーリのことを見遣った。


「ああ、面倒くさいこと言いだしたな。水の家の坊ちゃん、フェンリル出してくれないか」

『フェンリル?!』


 ケット・シーが慌てふためく。

 氷の狼・フェンリルとは、どうやら相性が悪いらしい。そのまま、空間に溶けるように姿が掻き消えた。

 精霊界に戻ったらしい。ほっとしたように、ポケットの中のぴーちゃんが嘴をすり合わせている。


 ようやく、落ち着いて話ができそうだ。

 ブリジットはおずおずと切りだした。


「あの、トナリさん。わたくし、精霊博士を目指しているのですが……」


 本当なら、晩餐会の場で訊くべきことかもしれない。

 しかしマジョリーたちはともかく、晩餐会には義弟のロゼも参加するのだ。


(家を出てひとりで身を立てたい、なんて話を彼の前でするべきじゃないわよね……)


「へぇ。頑張れよ」


 トナリからはものすごくどうでも良さそうな返事が返ってくる。だが、否定的な意見はなかった。

 それだけのことに勇気をもらって、続けてブリジットは口にする。


「今日は、何か参考になるお話しを聞かせていただければと思っていまして」

「参考ねぇ……」


 噴水の縁に座ったまま、トナリは胡座をかいている。

 やがて、彼は首を横に振った。


「正直、オレはそういうのは苦手だ。人にまともなアドバイスなんてできる人間じゃないからな」


 ぼそっとユーリが「そう見えますね」などと呟いたものだから、ブリジットは焦った。

 しかしトナリにはその呟きは聞こえなかったらしい。


「精霊博士を自ら名乗る輩はそれなりに居るが、正式に認められているのはオレを含めて国内で四人だけだ。王家の認可が必要なんで、一般人にはけっこうハードルが高い。これは分かってるな?」

「はい、もちろん」

「んで、王家の認可っつっても書類上のことで、別に王族と面談とか歓談とかするわけじゃない。実際は王宮勤めの役人に推薦してもらって、既に活動している精霊博士からお墨付きをもらえればいい」


 だが、とそこで一度、トナリは言葉を区切った。


「お前さんの場合は、横やりが入るかもしれないな」

「どういうことでしょう?」


 帽子の下から覗いた瞳が、ブリジットを鋭く見据える。



「ブリジット。お前さんを引き込んだ神官は、間違いなく次の大司教サマになれるからだ」



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