第78話.聞こえなかった言葉
「…………少し、恐ろしかった」
出し抜けの言葉に、ブリジットは何度か瞬きをする。
最初は聞き間違いかと思った。
ユーリが何かへの恐怖を口にするなんて、初めてのことだったから。
(ユーリ様……?)
顔を上げると、つい数秒前までのブリジットと同じようにユーリは俯いている。
前髪に隠れてその表情は窺えない。それを不安に思いながら、そっと問うた。
「……何が、です?」
「お前がイナドに連れて行かれて、帰ってこないと知って」
ブリジットは静かに息を呑んだ。
キーラに事のあらましは聞いていた。精霊博士と協力して、ユーリたちがブリジットの居場所を突き止めてくれたのだと。
同時に、ユーリが普段通り冷静だったから助けられた、ともキーラは話していたのだ。
(それなのに……)
俯くユーリは、今まで見たこともないほどに動揺している。
思わず立ち上がったブリジットは、テーブルを回ってユーリの隣へと移動した。
「ユーリ様、大丈夫です。わたくしは――、っ!?」
ここに居る、と伝えるつもりだった。
だがそれよりも早く、ユーリがブリジットの腕を掴んだ。
制服が皺になるほど強く、掴まれる。
ようやく顔を上げたユーリの瞳には、切実な光だけが灯っていた。
「――僕が、これからもお前を助ける」
その言葉は、誓いに似ているのに。
ユーリの身体は汗ばみ、表情は苦痛に歪んでいた。
「目を離したりしない。だから……勝手にどこかに居なくなったり、しないでくれ」
どうしてだろうか。
今のユーリは、ブリジットの目には小さな子どものように見えて。
(ああ……)
父親に折檻され、泣き喚く幼いブリジットの手を握ってくれた人。
当時のブリジットとほとんど変わらない大きさの手は、ずっと震えていたように思う。
あの手の感触は、ブリジットにとって救いだったけれど。
『……僕は、強くなんてない』
ひどい目に遭わされた女の子を助けられなかった、と吐露したユーリの言葉が甦って。
思わずブリジットは、ユーリのことを抱きしめていた。
ユーリの身体は冷えきって、小刻みに震えていた。
安心させたくて、広い背中を撫でてやる。そうしていると、少しずつユーリの震えは収まってきたようだった。
「居なくなったりしませんわよ、わたくし」
「…………」
「それにこの赤髪、遠くからでも目立つでしょう?」
「…………そうだな」
わざと軽い口調で言えば、ユーリが小さく頷く。
安堵したブリジットだったが、なぜかそのまま整った顔が間近まで迫ってきて。
想定外の事態に、一瞬でパニックに陥ってしまった。
(え? ええっ?)
しかし唇はすり抜けて、ユーリの手が頬の横に伸びてくる。
ブリジットの長い髪を手に取ると、そこにユーリが顔を寄せた。
香りを確かめるように。感触を覚えるように。そうして何度も撫でつける。
その柔らかな呼気が、時折ブリジットの頬を掠めた。
「あ、あの。ユーリ様……?」
くすぐったくて、恥ずかしくて身を捩ると。
おもむろにユーリが、髪にそっと口づけた。
「…………っ!」
あまりの出来事に一気に茹で上がるブリジットを、間近で見つめる。
「僕は、お前が――――、」
(……え?)
ユーリの喉の奥が引き攣ったのを、確かにブリジットは見た。
彼は愕然と目を見開いていた。
我に返ったように手を離して立ち上がると、踵を返してさっさと歩き出してしまう。
ブリジットも数秒遅れで慌ててついていく。
なんとなく、このままユーリと別れてはいけない気がして。
「ユーリ様! ユーリ様ったら!」
しかし何度呼びかけて追い縋っても、大股で進むユーリとの距離は開くばかりで。
その足を止めたい一心で、ブリジットは走りながら叫んでいた。
「わ――わたくしから目を離したりしないって、言ったのに!」
効果は
数歩進んだところで、ユーリがようやく立ち止まる。
「そうだった」
追いついたブリジットに真顔で言ってのけるあたり、いつもの彼らしい。
そうですわよ、とむかつきながらブリジットは隣に並ぶ。
しかし失念していた。意趣返しは、よっぽど彼のほうが上手なのだと。
「それでお前は、ずっと自分の手を握っていろと言ったな」
「あ…………」
まさかあの失言を覚えられていたとは。
と驚くより先に、ユーリの手がブリジットの左手を握ってしまう。
ひゃ、とブリジットは跳び上がってしまった。
間抜けな声を漏らすブリジットのことを、面白がるようにユーリは口の端を上げている。
「あ、あれは違っ……あ、焦って、言っちゃっただけ……」
「焦ったにしても、もっと他にあるんじゃないのか」
「――お、おもも、思いつかなかったんですのっ!」
わたわたするブリジットをからかってみせるユーリは、この上なく楽しそうだ。
「帰るか」
「……手、握ったまま……ですか?」
答えないのは、肯定を意味しているらしい。
いいようにされているのは気がついていたが、ユーリの調子が戻っているのに安心したから、手は離さないことにした。
他愛ない話をして馬車の停車場に向かいながら、つい先ほどのことを思い出す。
何かを言いかけたユーリの唇は、確かに小さく動いていた。
単純な動きだったから、目で追っていたブリジットには、すぐに彼がなんと呟いたのか分かったのだ。
でも、違う。
きっと違う。
(『好きだ』…………なんて)
ユーリがそんな言葉を、言ったはずがない。
ブリジットは緩く頭を振って、そんな都合のいい勘違いを打ち消した。
握った手は冷たくて。
その温度が自分のものなのか、ユーリのものなのかは、分からないままだった。
――別邸に帰ってくると、屋敷の空気がおかしかった。
馬車が停まる前から、玄関前に人が集まっているのは見えていた。
いつもは小さく笑んで「おかえりなさい」と出迎えてくれるシエンナも、ブリジットが馬車を下りるなり慌ただしく駆け寄ってくる。
その後ろには他の侍女たちも居る。全員の顔に強い困惑と焦りが――それに恐怖に近い感情が見て取れた。
「ブリジット……お嬢様」
「……シエンナ? どうしたの?」
ブリジットが留守の間に、何かあったのだろうか。
そう訊いた直後だった。
閉じていた玄関の扉が、ゆっくりと開かれた。
「ブリジット」
反射的に身体が硬直する。
(この、声…………)
一瞬。
氷の中に落とされたように、全ての音が自分から遠ざかっていくのを感じた。
直接その声を聞くのは十一年ぶりになるのか。
ずっと、ずっと、何度も悪夢の中で耳にしながらも、恐れ続けていた声だった。
逃げ出さなかったのは意地に近い。
踵を必死に、地面に縫いつけるようにして踏みとどまる。
荒くなりそうな呼吸をなんとか押さえつけながら、顔を上げた。
そこには、ブリジットの父であるデアーグ・メイデル伯爵が立っていた。
つまらないものを見るような顔つきで娘を見下ろし、彼は言い放つ。
いっそ聞こえなかったことにしたいほどに。
その言葉は、残酷なまでに響き渡った。
「お前を許してやる。本邸に戻ってこい、ブリジット」
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読んでいただきありがとうございます。これにて第二部完結です!
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また、本作のカバーデザインが公開となりましたのと、コミカライズも決定しました!
詳しくは近況ノートにてご報告させていただきます。今後とも『あくあく』をよろしくお願いいたします。
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