第76話.断ち切られた呪い

 


 そこには、座り込んでいたはずのジョセフの姿があった。

 苦悶に呻いているジョセフを見れば、彼の左腕には浅く【魔切りの枝】が刺さっていた。


「う……あああ……!」


 僅かに赤い血が流れる腕を押さえ、蹲るジョセフ。


 ブリジットは目を見開いた。

 いったい誰が、王族相手にそんなことをしたのか――犯人は、探さずともそこに居たからだ。


 ジョセフの近くに風精霊と炎精霊の二体が、ぼんやりと浮かび上がっていた。

 妖精種の風精霊は透明な羽を動かしながら、むっとした顔つきでジョセフを見下ろしている。


(まさか……この子が風魔法で【魔切りの枝】を操って、ジョセフ殿下に刺したの……?)


【魔切りの枝】は、人間が一方的に精霊を拒絶するために造られた道具だ。

 だがそもそも、人間だけに精霊を選ぶ権利が与えられているわけではないのだ。


 契約精霊だって、ときには契約者に愛想を尽かして精霊界に戻ってしまうことがある。

 その場合、二度と精霊が顕現しなかった例もあるそうだ。


(でもジョセフ殿下の契約精霊たちは、それじゃ許せなかったんだわ……)


 契約精霊が居る以上、契約者の魔力は補充されるし、魔法を使うことができる。

 だから風精霊は【魔切りの枝】を触れずに操って、ジョセフに刺したのだ。


「お、俺にこんなことをしてなんのつもりだッ! 俺はお前らの契約者様なんだぞ! おい! なぁ! この役立たずの雑魚精霊ども……ッ!」


 口汚く罵りながら、のたうち回るジョセフ。

 どんなに腕を振り回しても、その手は宙に浮かぶ精霊たちに届くことはない。


 今までジョセフがやったことを考えれば、自業自得とも思う。

 だが、遠巻きにしている生徒たちに奇異の目で見られながら、なお叫び続けるジョセフの姿に、なんとも言えない気持ちになっていると。


「そうそう。精霊ってのは、本来自由であるべきだからなぁ」


 その様子を見て、クセ毛の男はうんうんと頷いていた。

 この決着に、彼はひとり満足げな様子だった。


「人はもっと知るべきなんだよ。精霊が、どれほど人間を愛してくれているか」

「ええ……わたくしもその通りだと思います」


 思わず呟く。男の言葉自体は正しいと思えたからだ。

 嬉しそうに口元を緩ませた男から視線を外し、傍らのぴーちゃんをブリジットは見つめた。

 小首を傾げるようにして、ぴーちゃんが見返してくる。


(あなたがわたくしを、選んでくれた)


 その事実を、いつまでも大切に胸に刻んでいたい。

 そうでなければきっと、人はすぐに傲慢になってしまうから。


(あ……)


 契約者の不甲斐なさを謝るように、精霊たちがブリジットに向かって頭を下げた。


 精霊界に戻ったのだろう。そのまま彼らの姿は、幻のように掻き消えてしまう。

 ジョセフとの呪いにも近い絆は断ち切られ、再び自由を手にしたのだ。


 ……今このときから野良精霊となった彼らは、今後は人間に関わらずに生きていくのだろうか。

 あるいはまたいつか、お気に入りの人間ができて、その人に力を貸すことになるのかもしれない。


 精霊博士を目指す身として、できれば後者であるようにとブリジットは祈らずにはいられなかった。


「ブ、リジットは俺を、見捨てないよな?」


(…………え?)


 思わず息を呑む。

 見れば、精霊たちが消えたあと――ふらふらと、ジョセフが立ち上がっていた。


 常日頃の表情を今さら演出するように、彼は笑っている。

 だが怒りのためか憎悪のためか、顔は凶暴なまでに歪んでいて、それでも笑い続けているのが異様で。


 恐ろしい形相のまま、ジョセフはこちらに近づいてくる。

 軋んだ声音で、何か呟き続けながら。


「哀れな"赤い妖精"。俺は君の救世主なんだ。だから君だけは……」


 ふと、繋いだままだった手をユーリが離した。

 かと思えば彼はつかつかとジョセフに歩み寄って。



 ――握った拳で、ジョセフの頬を殴りつけていた。



「ユーリ様!?」


 ブリジットは悲鳴を上げる。

 集まってきていた生徒からも声が上がった。


 勢いよく吹っ飛ばされ、瓦礫の中を転がるジョセフ。

 土埃の中、目を凝らせば……その整った顔は赤黒く腫れていた。

 唇が切れたのか、口端からは血も滲んでいる。


 人に殴られた経験などないのだろう。

 ジョセフは何が起こったのか分からない様子で呆然としていた。


「どれだけブリジットを傷つければ気が済むんだ、お前は」


 凄まじい怒気だけが籠る声で呟くと、ユーリは再び拳を握る。

 反射的にか、ジョセフが情けない悲鳴を上げて後退った。

 だがユーリが踏み込む前に、ブリジットは彼の腕に抱きつくようにして羽交い締めにした。


「駄目ですユーリ様!」

「っどうして止める。この男はお前を――」

「あなたの手が傷つくのが、いやなんです!」


 その言葉に、ユーリが一瞬だけ動きを止める。

 畳みかけるようにブリジットは叫んだ。


「こんな人のために、あなたの綺麗な手に傷が残ったらどうするんですのッ?!」

「…………」


 だがユーリは止まらなかった。

 しがみつくブリジットごと引き摺るようにしてジョセフに近づいていく。そうするべきだと示すように。


「ユーリ様……っ」


 ブリジットは歯噛みした。

 分かっている。ユーリは今、他でもないブリジットのために怒ってくれているのだ。

 分かっているからこそ、黙って見ているなんてできなくて。



「――そんなことするくらいなら、ずっとわたくしの手を握っていてくれたらいいでしょうっ!?」



 無我夢中で、怒鳴るような調子で叫んだ。


 とにかく必死だったのだが、周りの人たちがどこかポカンとしているのに気がついて……数秒遅れで、ブリジットは自分の言葉の意味を理解する。


 気がつけばユーリの動きも止まっていた。

 怖々と見上げれば、怒っていたはずの彼は、どこか間の抜けた顔でブリジットのことを見下ろしていて。


 ――あまりにも恥ずかしくて、ブリジットの身体は石像のように硬直してしまう。


「……分かった」

「…………」

「分かったから、離せ」

「………………」

「ブリジット?」

「………………は、はい」


 打って変わって優しい声で名を呼ばれ、ぎくしゃくとブリジットは手足を動かす。

 直立不動のブリジットは、傍らのユーリがじっと彼女の手を見ていることにはまったく気がつかず、そのまましばらく固まっていた。


(ど……私、何言って……嘘じゃないけどっ! でも、なに、こんな、も――もおおぉっっ!)


 混乱のまっただ中だが、数人分の足音が背後から近づいてくる。

 ぎこちなく振り返ると、クセ毛の男に連れられるように壮年の男性と、髭を生やした老人の姿があった。


 二人がまとう法衣のような服からして、神官だろうか。

 だが背を丸めてよぼよぼと歩く老人の右手には、権杖が握られている。

 黄金の糸や飾りを使った豪奢な法衣も、明らかに一般の神官のそれではない。


 それに、とブリジットは視線を動かす。

 老人の首から提げられたストラも豪勢なもので、黄金と朱の糸をふんだんに使ってその先端に描かれているのは、伝説の精霊――フェニックスの姿である。


(もしかしてこの方は、大司教――?)


 だが学院視察で、全神殿を統括する最高責任者が姿を見せるなどと今までに聞いたことがない。

 唖然としていると、壮年の男性が肩を怒らせてクセ毛の男を怒鳴りつけていた。


「王子殿下の御身を守らずして、貴様は何をやっていたのだ!」

「え、何かありましたっけ? オレは何も見てないですけどねぇ」


 のらりくらりとクセ毛の男が躱している。

 つまり彼は、ユーリがジョセフを殴った件については目を瞑るつもりらしい。意外なことに味方してくれるようだ。

 そしてようやく、神官と話す彼が精霊博士らしいとブリジットは気がついた。


「ああでも――【魔切りの枝】の管理を任されているご立派な神官長殿には、オレとは違うものが見えたとか?」


 精霊博士が水を向けると、神官長と呼びかけられた男性がヒッと息を呑む。

 傍目にも分かるほど、彼は動揺しているようだった。精霊博士の胸ぐらを掴んでいた手が、ブルブルと震えている。


「ち、違う。ジョセフ殿下が勝手に【魔切りの枝】を持ち出しただけだ! 私は何も……何も知らな……」

「へぇ、そうだったんですね」

「……あぁ……」


 神官長がその場にくずおれた。

 どうやら彼が、ジョセフの協力者だったらしい。

 その顔にはなんとなく見覚えがあったが――それよりもブリジットが気になったのは、大司教のことだった。


「大司教も、何も見てませんよね。……って、大司教?」


「この様子だと聞いてないな」と精霊博士がぼやく。

 大司教の落ち窪んだ瞳は流れる涙に濡れ、その瞳はぴーちゃんのことを瞬きもせずに見つめていた。


 その後ろでは駆けつけてきた教員たちが、慌ただしくこちらに走ってきていたのだった。



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