第72話.不出来な王子2

 


 誰よりも哀れで愚かなはずのブリジット・メイデル。

 彼女に裏切られていたのだと――数年経ってようやく知ったジョセフは、決めた。


(もういい)


 それならば、もう要らない。


(ブリジットは捨てて、他の馬鹿女を探そう)


 その日から、ジョセフはブリジットに、今まで以上に露骨に冷たい態度で接するようになった。

 もちろん、人前では穏やかに、婚約者を気遣う紳士らしい振る舞いを心がけていたが。

 ブリジットは戸惑いながらも、文句ひとつも言わなかった。ジョセフを恩人だと思っているのだから、当然のことだろう。


 オトレイアナ魔法学院に入学したジョセフは、すぐに目星をつけた。


 リサ・セルミン。

 なんの後ろ盾もない、田舎の男爵家の娘である。


 顔はまぁまぁ整っているものの、教養がなく馬鹿っぽいリサはジョセフにとって都合が良かった。

 ほとんど平民と変わらないような家柄の、しかも頭の弱い娘に優しく接する王子というのは、国民からもさぞ慕われることだろう。



『ブリジット・メイデル。俺はお前との婚約を破棄させてもらう!』



 そうして、入学から一年後――満を持して、ブリジットを惨めに捨ててやった。

 彼女の信じられないものを見るような顔に、ついつい笑いが込み上げそうになり、それを耐えるのに苦労したものだ。


(そりゃあ、信じられないだろうな)


 会話したこともないリサを虐めた、などと責められて、ブリジットは驚いたことだろう。

 もちろん、そんな事実はない。婚約を破棄するに当たり、何か正当な理由が必要だとリサに持ちかけ、そんな物語ストーリーをでっち上げただけのことだ。


 しかしジョセフにとって誤算だったのは、リサの良識のなさだった。

 婚約もしていないというのに、人前で甘ったるく名前を呼び、腕を組もうとしてくることもあったのだ。

 貞淑とは無縁らしく、声を張り上げてジョセフとの思い出を自慢げに語っているのも聞いたこともある。


 ……うんざりした。

 ブリジットはジョセフの言いつけで高慢な女を演じていたものの、そのような貴族令嬢らしからぬ振る舞いを見せたことは一度もなかったというのに。


(この女より、躾られた犬のほうがよほど利口だ)


 取り替え子チェンジリングだと罵られ、幼い頃に実家を追い出されたとは言っても、ブリジットは名家の令嬢である。

 礼儀正しく、優雅な所作が身に着いていたブリジットとリサとでは、比べるべくもなかったのだ。


 そんな自覚のないリサは、終いには「婚約はいつにしましょうか?」などと目を潤ませて訊いてくる始末だ。

 もちろん、その頃にはリサに愛想を尽かしていたジョセフは、笑って誤魔化しておいたのだが。


 ――そんな風に、辟易とした毎日を送りながら。

 ふと、ジョセフは気がついてしまった。


 あまりにも大きすぎる違和感に。


(ブリジットは……?)


 おかしい。

 大好きだったジョセフに捨てられ、最底辺の学院生活を送るしかないはずのブリジット。


 それなのに見かけるたび、彼女は毅然と前を向いている。

 教師が圧倒されるほどに、筆記試験の点数を伸ばしていく。

 授業では毎時間のように挙手をして、次々と問題を正答するのだと、ジョセフのクラスでさえ話題になる。


 本当は、人々から馬鹿にされるブリジットが優秀であることなど、ジョセフが一番よく知っていた。

 だからこそリサをけしかけて、何度も邪魔をしようと試みたものの、ブリジットにはその全てが通用しなかった。


 筆記具を奪ったときは、血文字で答案用紙を完璧に埋めてみせた。

 ジョセフの側近であるニバルは、気がつけばブリジットの付き人のようになった。

 燃える松明を持たせたリサを放ったのに、結果的に停学となったのはリサのほうだ。


 そしてブリジットの傍には、いつも、ジョセフではない誰かの姿があって。

 ほとんど交流のなかったはずのあの男――ユーリ・オーレアリスを、そこに見るとき――胸の底には、暗い感情が湧き上がる。


(俺に、泣いて縋ってくると思ったのに)


 泣いて、赤い髪をみすぼらしく振り乱して。

 どうかまた慈悲をおかけください、と懇願してくると思っていた。


 ブリジットにはジョセフしか居なかったのだ。

 虐げられる彼女にとって、ジョセフだけが唯一の味方で、聖人で、庇護者だったはずだ。

 それなのに、ブリジットはあの碧眼にジョセフのことを映さなくなり、代わりに他の男のことばかりを追いかける。


 楽しそうに、笑っている。

 ジョセフが未だ、かつて見たことのないほど軽やかな表情で。


(…………気に食わない)


 ジョセフというしがらみを失ったことで、"赤い妖精"は羽ばたいたとでもいうのか。

 そんなことを考えるたびに腹が立ち、苛立ちは募っていくばかりだった。


 だからジョセフは、言ってやったのだ。



『もう一度、婚約しよう。俺とやり直さないか、ブリジット』



 特上の餌をぶら下げれば、ブリジットは一も二もなく頷くだろうと思った。


 そう思っていたのに、また目論みは外れた。

 挙げ句の果てに、ブリジットは『好きな人が居る』などと言って、はっきりとジョセフのことを拒絶してみせたのだ。


 宣言と共に二人で教室を出て行く後ろ姿を見れば、その相手が誰かなどと、考えずとも分かる。

 怒りで目の前が真っ赤に染まる。喉が引き攣れるほどに震え、指先が食い込んだ手のひらからは血のしずくが滴った。


(俺はあいつに、勝ったはずなのに)


 それなのに、また――敗北するというのか。

 また周りの人間から、不出来な王子だと嘲笑われる日々に逆戻りするのか。


(いや。違う。……俺は、違う!)


 ジョセフは必死に策を講じた。

 夏期休暇の際に、メイデル伯爵邸の方角から立ち上る光の柱は、ジョセフも目撃していた。

 眠り続けていたブリジットの契約精霊は、既に目覚めてしまったのだ。


 できうる限り時間は稼いだが、もうあまり猶予はない。

 あの少女が、想像を絶するほどの精霊と契約していたことを、神殿の人間たちに悟られる前に。


(俺が、ブリジットを――誰よりも愚かな人形に、戻してやらないと)


 リサは寮に引き籠もり、ジョセフが呼んでも出てこなくなった。

 使い勝手の悪い駒だったが、リサが消えた以上、ジョセフは自ら行動を起こさなければならない。


 人間と精霊との関係を断ち切る【魔切りの枝】を手に、ジョセフはほくそ笑んだ。


 ニヤニヤと笑いながら、ブリジットの傷ついた顔を想像しては悦に浸る。

 きっとユーリも、何かのきっかけでブリジットの契約精霊のことを知ったのだ。

 だからこうして、再びブリジットの元に恥ずかしげもなく現れた。そうに違いない。


 それならば、ブリジットが精霊を失ってしまえば見向きもしなくなるのだろう。

 他の人間たちもそうだ。今はブリジットをちやほやとしている彼らも、すぐに離れるに違いない。


(またひとりになった君は、俺のところに戻ってくるしかないんだ)



 ――自分の、本当の目的はなんなのか。



 彼女への感情は、どんな形をしていたのか。

 最初から歪んでいたそれの正体を、ジョセフ自身、分からなくなっていた。



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