第71話.不出来な王子1

 


 ――できの悪い王子だと陰口を叩かれるようになったのは、いつのことからだっただろう。



 ジョセフは記憶していないが、おそらくは、それは五歳になるよりずっと前のこと。

 王族であれば、できて当然のことができない。すぐ覚えられることを、何度もやらなければできない。


 殿下のお兄様たちはこんなこと、一度教えれば簡単にできましたのに。

 それは家庭教師の女の口癖で、ジョセフは耳が溶けそうになるほどその言葉を聞いたものだ。


 五歳になり、神殿で契約精霊を得て――その精霊たちも、下級に近い中級精霊でしかなかったことで、ますますジョセフへの周囲からの風評は悪くなっていった。


 国王は、そもそもジョセフには微塵も期待を寄せていなかった。

 ジョセフの実母は第二妃だったが、彼女はなんとか授かった男児ができ損ないであったことを嘆くばかりだった。


 しかしジョセフにとってますます不幸だったのは、異母兄二人が人格的にも優れた人物だったことだ。

 性根も腐り、頭のできも悪いジョセフ。そんなジョセフにも朗らかに接する兄二人はなんと輝かしいのだろう。


 彼らを見て、彼らを取り巻く人々の笑顔を見るたびに、ジョセフは心の中が黒いもので満たされていくのを感じた。

 二人を真似して、形ばかりの笑顔を取り繕うのは得意になっていたが、そんなことをしても誰もジョセフに見向きはしなかった。


 そんなときに耳にしたのが、"赤い妖精"の噂だった。


 ジョセフと同い年の少女、ブリジット・メイデル。

 炎の一族と呼ばれる名家の出身でありながら、なんと彼女は名無し精霊と契約してしまったという。

 挙げ句の果てに父親に腕を焼かれ、家を追い出されて別邸でひとり暮らしている。


 そんな噂を聞き、ジョセフは興味を持った。

 ある日、とある貴族の開いたお茶会の場で彼女を見つけたジョセフは、笑顔で話しかけてみた。


「ブリジット嬢は、何か好きなものはあるの?」


 暗い顔で俯いていたブリジットは、ジョセフに声をかけられて驚いた様子だった。

 両手には、暑い日だというのに分厚い手袋をしていた。その下に醜い傷を隠しているのだと思うと、それだけで哀れだった。


 会話は大して弾まなかったが、ぽつりぽつりと話をして――その日、ジョセフは決めた。


(この子と、婚約しよう)


 ただしブリジットに同情したわけでも、惹かれたわけでもない。


 今までジョセフが冷遇されてきたのは、三人の王子の中で最もできが悪かったからなのだ。

 だが、もしも。


鹿が、俺の傍に居たら)


 最初はそんな思いつきだった。

 しかしジョセフの思いつきは、思いも寄らぬ形で人々に評価されることとなった。



 ――無能のブリジットに、ジョセフ殿下が手を差し伸べたらしい。

 ――なんてお優しい方なのかしら。笑顔も素敵でいらっしゃるものね。

 ――"赤い妖精"は幸せだな。殿下のような方に哀れみを向けていただけるなんて。



 今までジョセフを顧みず、小馬鹿にしてきた貴族たちが、次々とジョセフのことを賞賛する。

 人格に優れている。兄二人に勝る人徳者。笑顔が優しい王子――そんな声が聞こえてくるたびに、ジョセフの気持ちは高まった。


 極めつけは、婚約の挨拶にメイデル伯爵に会ったときのことだ。

 ジョセフが個人的に伯爵邸を訪れたため、ブリジットはその場には居なかった。

 ブリジットは本邸への立入りを禁じられているためだ。なんとも稀有な話だったが、伯爵はそれを醜聞とも思っていないようだった。


「本当に助かりました、殿下。あのような出来損ないを引き取っていただけて」


 無表情のまま、伯爵はそう言って頭を下げた。

 実の娘に向けるものとは思えない台詞だったが、ジョセフは鷹揚な笑顔で頷いた。

 さすがは実の娘を暖炉で焼いた男だ。その妻も姿を見せないのだから、似たような生き物なのだろう。別にどうでも良かったが。


 すると少しほっとした様子で、メイデル伯爵は口にしたのだ。


「……実はあの娘には、別の婚約話が持ち上がっていたのです」

「なんだって?」

「いえ、もちろん破談にはなりましたがね。実は、彼の一族の――」


 ……その話を聞いて。

 ジョセフが歓喜に打ち震えたのは、言うまでもなかった。


 ジョセフの兄二人よりもよっぽど優れた同い年の少年のことは、よく知っている。

 というのも毎日のように引き合いに出されるのだから当たり前だ。

 ただ誉れ高い精霊と偶然契約できただけのその少年のことを、ジョセフは強く敵視していた。


 しかし、そんな人間さえも捨てた少女のことを、ジョセフはこの手で救ってやったのだ。


(ああ。ああ。……アイツに勝てたなんて、最高だな)


 部屋に籠もり、枕に顔を埋め、声を殺して笑った。

 そうしなければ扉番が即座に確認しにくるからだ。今やジョセフは無能の王子ではない。今さら変わり者のレッテルを貼られるのはごめんだったのだ。


 そして婚約者となったブリジットとの関係も、思いのほか順調だった。


 婚約して、ジョセフにはすぐに分かった。

 ブリジットは本当に気の弱い少女だった。


 炎の一族は、激しい気性の人間が多いと聞く。

 だがブリジットは左手の火傷のせいなのか、いつも左手を隠すようにしてビクビクと怯えていて、落ち着かず周囲を見ていることが多かった。


 人前に出ると、緊張に身体を強張らせてジョセフの後ろに隠れ、時折縋るようにして服の袖を不安げに引っ張ったりするのだ。

 それが堪らなかった。この少女にはジョセフしか頼れる相手が居ないのだ。

 そう思うと堪らず快感で、高揚で胸がいっぱいになり、そんな日は後ろ手にブリジットの小さな手を握ってやって、普段よりもずっとニコニコと笑っていられるのだった。


 だが付き合いが続く内に、ジョセフは予想外のことに気がついた。

 噂と異なり、ブリジットは頭が良く知的な少女だったのだ。


 読んだ本の知識をすらすらと披露したり、詩を諳んじてみたりはお手の物で。

 刺繍やサロンでの交流など、女性らしいことは軒並み苦手だったが、勉学に関しては並大抵ではなかった。


 それを知ったジョセフは焦った。

 哀れで無能なブリジットを傍に置いてやっているからこそ、ジョセフは優しいと讃えられるのだ。


 ジョセフよりも優秀な婚約者など要らない。

 オトレイアナ魔法学院への入学が迫っている以上、誰かにブリジットの優秀さが露見してしまうのは避けなければならなかった。


 そこで一計を案じた。



「俺、馬鹿な女ほど可愛くて好きなんだ」



 ピンク色のドレスを着ろ、高飛車な態度で振る舞え、試験の回答を間違え。

 その他にも、ジョセフはブリジットに多くの要求をした。そのたびブリジットは頷いて、ジョセフの好みの女性になるための努力を続けた。


 そんな理不尽なことをされても、ブリジットはジョセフへの態度を変えなかった。

 少なくとも、ジョセフはそう思っていた。次第に彼女の表情が、出会った頃に近い、何かを諦めたものに戻りつつあることには、気づかない振りをしていた。


 ブリジットはよく、ジョセフを見上げては小さな声で言っていたから。


「ジョセフ様は、本当にお優しい方ですね」


 憧れるような、純粋な目をして彼女はそう言う。

 出会った当初は、それを煩わしいと思っていた。


 だが、何度も口にされている内に、それがブリジットの心からの言葉なのだと知った。

 人に馬鹿にされる第三王子など、ブリジットは知らないのだ。

 自分を出口のない闇の中から助けてくれた人。救い出してくれた人だと、ジョセフのことを信じ切っている。

 そのせいか今では、無垢なブリジットと語り合う時間に小さな安らぎを覚えつつあった。


 ――そんな日々が唐突に終わりを告げたのは、学院に入学する直前のことだった。


 その日、ジョセフは久方ぶりに神殿を訪れていた。

 物心ついてから、神殿にはよく通っていたので慣れたものだ。


 王宮に居るのは苦痛だった。あそこではただ優秀な兄二人と比べられるだけだったからだ。

 だが神殿では、年若いといっても王族の一員であるジョセフのことを手厚くもてなしてくれる。


 ジョセフは思いつきで、特別に仲の良い神官にこっそりと頼み、神殿に置かれた魔力水晶を持ち帰ることにした。

 契約の儀で使われるそれは、目の前に立つ人物の契約精霊を見るために使われる特別な代物だ。

 それで、ブリジットに取り憑いているという名無しを直接見てやろうと思ったのだ。

 ジョセフの精霊たちよりよっぽど惨めなそいつは、よっぽど笑えることだろう。


 だが、予想は最悪の形で外れた。

 うたた寝をするブリジットに水晶をかざして、目にした精霊は――名無しでもなんでもなかったのだ。


 信じがたい事実を前にして、ジョセフは唇を噛み締めた。

 頭の中は、凍りつくような真っ赤な怒りで染め上がっている。


 彼女こそが自分にとって唯一なのだと、信じかけていたのに。



(――君も俺を裏切るんだな、ブリジット)



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