第70話.知らなかった悪意

 


「来てくれてありがとう。君のことをずっと待っていたよ」


 そんなジョセフの言葉で、大体のところを察する。

 つまり――イナドは、ジョセフに協力していたのだ。


 ブリジットをここに連れてきた時点で、彼の役割は終わったということだろう。


(どうして……)


 しかし、今が呑気に考えている場合でないのは分かる。

 ブリジットは一歩後ろに後退った。


「恐縮ですが、わたくしは用事が」

「ブリジット」


 だが、ジョセフはお構いなしに距離を詰めてくる。

 もう一歩下がったブリジットだったが、狭い部屋――しかも密室に逃げ場はなく。


 為す術なく壁際に追い詰められ、息を呑む。


「っこれ以上、近づいたら――」

「近づいたらどうするっていうんだ? 君には魔法が使えないだろう?」


 ブリジットは思わず歯噛みする。


 正しくは、現在のブリジットには魔法が使える。

 しかし下級魔法を使おうとしても、とんでもない熱量の火の玉を生み出してしまう始末で……ユーリの指導があっても、未だ使いこなすには至っていない。


 この狭い密室で、暴発覚悟で魔法を使うことはできない。運が悪ければ二人とも即死だ。


 打開策を考えるブリジットの前で。

 ジョセフは、優しげにも見える笑みを浮かべていた。


「俺とやり直すと言えよ、ブリジット」

「嫌ですわ」


 だがブリジットが即答すると、その完璧な笑顔がひくりと引き攣る。


「……なんだって?」

「ですからジョセフ殿下。わたくし、あなたとやり直したくありません」


(つい先日、伝えたばかりですけど)


 言外にそう込めて、睨むように強く見据える。

 ジョセフの金色の瞳がゆっくりと細められた。


「……そうか、分かったよ」


(え……?)


 意外にも納得してくれたのか。

 そう戸惑うブリジットの耳朶を、滑らかな響きが打った。


「婚約している間に口づけのひとつもしなかったから、拗ねてるのかい?」

「…………は?」


 予想の範疇を超える言葉に、思考が停止する合間を縫うように。


 踏み込んできたジョセフが、ブリジットの顎を掴んだ。

 驚いて固まりかけた直後、整った顔が近づいてきて――悲鳴を上げかけながら、ジョセフの胸を突き飛ばした。


 だが、体格差のせいでびくともしない。

 咄嗟に逃げようとしたブリジットの左手を、ジョセフが無造作に掴む。


 転倒しかけるブリジットの腕を離さないまま。

 弱者をいたぶるのが心地良いのか、ジョセフは楽しそうに笑い声を上げていた。


「そうだな。ここで君を奪うのもいいかもしれないな」

「…………ッ!」


 ぞわぁと、全身の鳥肌が立つ。

 埃っぽい物置きで、そんなことを言い出す男がこの国の王族だということが信じられない。


「戯れは、やめてください……っ!」

「気丈だな。でも、震えてるよ」


 後ろから抱きしめるように羽交い締めにされ、ますます身体の震えは増す。

 ブリジットの長い髪に顔を埋めるようにしながら、クスクスとジョセフが笑う。


 首筋に吐息が掛かる。

 彼に触れられたところ全てに悪寒が走る。怖くて、叫び出したくて仕方がない。


 だが、泣きそうになるのを――寸前で堪える。

 それは、脳裏に閃く姿があったからだ。


(ユーリ様…………)


 青い髪と黄色がかった瞳をした、高潔な人。

 ブリジットの知る誰よりも冷静で、理知的で、そして――誰よりも格好良い人のことを、思い描く。


 不思議だった。

 ユーリのことを思うだけで、震える心に炎が宿るかのようで。


(ジョセフ様は、私の知る心優しい人ではなくなった……)


 ならば、こんな卑怯なやり口しか知らない男に、負けたくない。

 屈服していると思われたくなかった。その一心で、声を張り上げる。


「もうやめて! 離してください!」

「……うるさいな。精霊に八つ裂きにさせたほうがいい?」


 不機嫌そうに囁くジョセフ。彼は二体の精霊と契約しているのだ。

 炎と風の精霊。それぞれ強力な攻撃力を持つ精霊ではないが、そのぶん小回りが利く。


 野良精霊であれば交渉の余地はある。

 しかし契約精霊は、基本的に主を優先するものだ。説得の通ずる相手ではない。


『ぴー!!』


(ぴーちゃん……!)


 そのとき、押さえつけられていたブリジットの胸元から小さな影が飛び出した。


 ひよこ精霊はつぶらな瞳を怒りに吊り上げ、ジョセフに飛びかかる。

 小さな嘴で、尖った爪で、ぴーちゃんは何度もジョセフの顔回りを攻撃する。


『ぴー! ぴー!!』

「このッ……!」


 些細な攻撃に苛立ったのか、ジョセフが腕を吊り上げた。


 ――バシンッ! と。


 音が出るほど強くぴーちゃんが振り払われ、その小さな身体が床に叩きつけられた。


「ぴーちゃん!」


 無我夢中だった。

 ブリジットはジョセフの拘束からどうにか逃れ、四つん這いのままぴーちゃんに駆け寄る。

 小さな身体を両手で掬うが――ぴーちゃんはぐったりと横たわるばかりで、小さく開いた唇からは薄い吐息だけが漏れていた。


「ぴーちゃん……っ」


 もう耐えられなかった。頬を、熱い涙が伝う。

 爆発的な熱が、痛みが、頭の中に広がって――うまく、何も考えられなくなる。


「どうして、こんなことを……」


 背後から、服の埃を払う音が聞こえた。


「君に要求したいことはひとつだけだよ、ブリジット」


 熱が冷めたかのような平坦な声音で、ジョセフが言う。

 呆然と振り返ると、整った顔を引っかき傷だらけにしたジョセフが、懐から何かを取り出していた。


「それは……」

「さすがに知ってるか」


(ナナカマドの、枝……)


 ナナカマドは、赤い実をつける落葉樹だ。

 その枝を妖精は嫌うとされる。古いしきたりの残る村では、護身用のためにと若い娘に持たせることが多いという。


 だが、ジョセフの持つそれはただの枝ではない。

 ナナカマドの実をすり潰して色をつけたのか、鮮血のような赤色に加工された枝には、強い魔力が宿っているのが見て取れる。

 実物を目にするのは初めてだが、そのような特殊な代物のことをブリジットは知っていた。


「【魔切りの枝】……」


 人間と精霊の契約を強制的に解除できる、唯一の魔道具――【魔切りの枝】。


 悪妖精アンシーリーコートと呼ばれる、人に害を与える妖精たちが居るが、それに好かれてしまった人間を救うために神殿に置かれているという魔道具だ。

 尖った枝の先端で身体を刺せば、妖精はその人間に寄りつけなくなり、やがて彼方に立ち去ると言われている。


 だが王国の歴史上、使われたことは今までほとんどない。

 悪妖精アンシーリーコートといっても、人に力を与える存在であることに違いはないし、その絆を断ち切った子どもは、二度と契約精霊を得られない場合もあるからだ。


 しかし、神殿が所有する特殊な魔道具を、なぜジョセフが手にしているのか。

 そんなブリジットの疑問を、表情から読み取ったのか。


「俺に優しい神官が居てね、その人から預かったんだよ。それでブリジット、この枝を君の腕に刺してもいいかな?」

「…………」

「その精霊、邪魔なんだ」


 胸にぴーちゃんを抱きかかえ、しゃがんだままじりじりと後退る。

 ジョセフからは目を逸らさなかった。少しでも気を抜けば、彼はすぐにでもその恐ろしい言葉を実行するように思えたのだ。


(どうしてか、分からないけど……)


 ジョセフは、ぴーちゃんのことを知っていたのだ。

 もしかすると、光の柱が出現するよりも前から――ブリジットよりもずっと前から、ぴーちゃんのことを知っていた。


 そう思うと同時、唇から言葉が漏れていた。


「…………殿下は」

「うん?」

「ジョセフ殿下はどうして、わたくしと婚約したんですか?」


 ずっと不思議だった。

 そんなことを訊いている場合ではないのだろう。それでも、今を逃せばジョセフの本音は聞けない気がした。


 一瞬、ジョセフは驚いたように目を見開いた。


「……そんなの、決まってるじゃないか」


 ジョセフが笑う。

 それは今まで見た、彼のどんな表情よりも優しい微笑みだった。



「君が誰よりも馬鹿で、誰よりも可哀想だったからだよ。"赤い妖精"」



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