第73話.精霊の覚醒
「どうする? ブリジット」
これで全て、必要なことは語り終えたとばかりに。
そう言って薄く微笑むジョセフが、ブリジットに手を差し伸べた。
【魔切りの枝】を持つ右手ではなく、空いた左手を。
「今ならまだ、反抗的な態度は許してあげる。その精霊とは残念ながらお別れしてもらうけど……その代わり、俺との再婚約の名誉をプレゼントするよ。破格の条件だろう?」
「…………」
両手にぴーちゃんを抱きかかえたまま、ブリジットは差し出された手をじっと見つめた。
いつだっただろう――。
豪奢なシャンデリアの下、着飾った男女が談笑する中、こんな風にジョセフと向かい合う日を、夢見ていたことがあった。
麗しい金髪の王子に手を取られ、微笑みを交わし合って。
誰からも祝福されて、温かな拍手を送られるような、そんな日を。
「……ジョセフ殿下。わたくし、あなたと踊ったこともありませんでしたわね」
そう言うと。
一瞬驚いたように目を見開いてから、楽しげにジョセフは破顔した。
「そうだったね。だから今度こそ、一緒に」
ブリジットはスゥ――と大きく息を吸った。
それから、学院中にこの声を轟かせるつもりで。
思いっきり、叫ぶ。
「――――ぜええええええええったい、いやっ!!」
はっとしたジョセフが、押さえ込もうと手を伸ばしてくる。
なんとかその腕を避けたブリジットは、再び彼と距離を取りながら甲高く大声を上げた。
「わたくしも、リサさんも、あなたの人形じゃない! 勝手なことばかり仰るのはやめてくださいまし!」
「……っ俺は、君を選ぶと言ってやってるのに……!」
「そんなもの、恋じゃありませんわ!」
「!」
だって、今のブリジットはよく知っている。
胸がドキドキと高鳴って、いつだって落ち着かなくて。
頭の中にはグルグルと、その人のことばかり浮かんでしまって。
それなのに眠る前も、眠っている間さえも、その人の姿を一目でいいから目にしたいと、夢見てしまうような。
それで、ちょっとでいいから笑ってくれたらと、願ってしまうような。
(人を好きになるって、そういうことだもの)
だからジョセフのは、違う。
執着。独占欲。彼が持て余している感情の底は、ブリジットの想像の及ばぬほどに暗く澱んでいる。
「っうるさい、俺を否定するな……!」
【魔切りの枝】を手に、ジョセフが飛び掛かってくる。
「っ痛……!」
逃げようとしたが、長い髪の毛に枝の先端が絡まってしまった。
ニヤリとジョセフが笑う。ようやく獲物を捕まえたと言いたげに。
だが間髪入れず、ブリジットは片手で髪を掴むと、力任せに引っ張った。
ブチッと、首の後ろで髪の毛が千切れる嫌な音が鳴った。
女の武器と呼ばれるそれを躊躇いなく千切ったブリジットに、ジョセフは怯んだらしい。
その隙に再び、距離を取った。
(これ、あとでシエンナに怒られる……!)
毎日丹念に髪の手入れをしてくれている侍女は、それはそれは目を吊り上げることだろう。
いろんな意味で涙目になりつつ、ジョセフを睨みつける。
するとこちらを見据えるジョセフは、すっかり気力を失ったような顔をしていた。
「……もう、いい」
何が、と聞き返す暇はなかった。
口内で小さくジョセフが呟くと、その手に火球が生み出された。
以前、ブリジットが発生させた火球に比べれば、十分の一程度の大きさだ。
それをジョセフは躊躇いなく投げつける。ブリジットに――ではなく、その右隣にだった。
乾いた木の棚が一気に燃え、その火は瞬きの合間にも燃え広がっていく。
その様子を呆然と、ブリジットは見つめた。
へらりとだらしなく、ジョセフが笑う。
「この炎に焼かれて一緒に死のう、ブリジット」
……いよいよ、ブリジットの頭の中は沸騰寸前だった。
ジョセフのやっていることは、子どもの癇癪と同じだ。
少し上手くいかないことがあると、「もういい」とぞんざいに物を投げ捨てて周囲に当たり散らすような。
「誰があなたなんかと!」
んべー! と舌を出すブリジット。
ジョセフは変わらず笑みを浮かべたまま、肩を竦める。
「さっきの教師……イナドの父親は、王宮で文官として働いていてね。この火事はユーリ・オーレアリスの仕業ってことで片付けることにするよ。俺はリサとは違って、証人ならいくらでも用意できるからな」
魔石獲りの際の一件のことを言っているのは、明らかだった。
(やっぱりリサさんのときも、ジョセフ殿下が……)
ジョセフの契約精霊は二体。風と炎の精霊だ。
試験のときにリサが手にしていた松明の炎は、ジョセフか、ジョセフの精霊が灯したものだったのだ。
それきり、ジョセフは面倒くさそうに壁際に座り込む。
波打つ炎は恐ろしく、息を吸うたびに喉の奥が痛む。
手巾で口元を押さえるものの、効果は薄そうだった。
小さな物置小屋にはひとつしか窓がなく、それは閉ざされている。
このままでは、ブリジットもジョセフも炎に巻かれて命を失うことだろう。
なるべく炎から遠ざかった位置に逃げると。
腕の中の小さな精霊に、ブリジットはそっと呼びかけた。
「ぴーちゃん。あなただけでも早く逃げて」
ジョセフに殴られたぴーちゃんは、今も弱々しい呼吸を漏らすばかりだ。
炎の精霊であるぴーちゃんなら、ジョセフの炎にも対処できるかもしれないがその確証はない。ブリジットにはそれだけが不安だった。
そう思って声をかけると、うっすらとぴーちゃんが目を開ける。
その身体が熱く――淡く発光しているように見えるのは、目前で眩しいほどの炎が燃えていたせいだろうか。
ブリジットは両腕の手袋を外し、それで守るように小鳥の身体を包み込んだ。
別邸の使用人たちが贈ってくれた特別製の手袋だ。
炎に強い耐性のあるこの手袋なら、きっとぴーちゃんを守ってくれることだろう。
丸い頭を優しく、何度も撫でてやる。
そうしながら、にっこりとブリジットは微笑んだ。
ようやく会うことができた、大切な精霊。
ブリジットを選んでくれた、唯一の子に。
「ありがとう、ぴーちゃん。こんなわたくしと契約してくれて」
『……ぴ……』
ぴーちゃんの
「ブリジットッ!」
ふいに、聞き慣れた声がした。
弾かれたように顔を上げる。
「そこに居るのか!? ブリジット!」
「ユーリ様……!?」
扉の向こうから、ユーリの声が聞こえていた。
駆け寄ったブリジットは、扉を叩く。ここに居ると伝えるために。
「ブリジット様ぁ!」
「ブリジット嬢!」
すると泣き叫ぶようなキーラの声と、ひっくり返ったニバルの声も続く。
追い詰められた状況ではあるが、ブリジットは安堵した。
きっとキーラが、いつまでもやって来ないブリジットを、ユーリたちと共に探しに来てくれたのだ。
(大声を出した甲斐ありだったわ!)
「煙が出てる……! すぐぶち破るから待っていろ!」
ユーリらしくない焦った声が聞こえる。
しかしそれだけで、ブリジットの胸には安堵が広がっていく。
そのとき、壁際に座り込んだままのジョセフが失笑した。
息が苦しいのだろう、ゴホゴホと何度も咳き込んでから言う。
「まるでヒーローみたいなタイミングだな。完璧すぎて反吐が出るよ」
炎は床を這うように広がり、周囲を囲みつつある。
既にブリジットも、肺が焼けそうなほどに苦しかった。
それでも、手巾を外して微笑む。
今なら恥ずかしがらずに、言葉にできると思ったのだ。
「……ええ。彼が、わたくしのヒーローです」
それから、壁のほうに向き直る。
醜い火傷跡の残る左手で、なぞるように壁に触れた。
ジョセフに伝えるためではなくて。
今、きっと目の前に居るはずのその人に向かって、伝えた。
「私、ユーリ様のことが好きです」
そう告げた瞬間だった。
ブリジットの腕のあたりが、俄に輝き出す。
驚いて視線を下げようとするものの、それは叶わなかった。
目蓋の裏さえ強く焼き焦がすほどの光に、呼吸も忘れる。
そのとき。
巨大な鳥が鳴いたような、凛とした美しい声が辺りに響いた。
まったく知らない鳴き声だ。にも関わらず、ブリジットの胸には確信が芽生えていた。
(……ぴーちゃん……?)
目を開けられないままのブリジットを、力強く導くように。
光の柱は真っ直ぐに、天井を突き破って。
どこまでも高く、高く、大空に向かって伸びていく。
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