第65話.すぐ近くの恋心
「ジョセフ殿下……っ」
「やだな、そんなに怖い顔をしないでよ」
悲痛に訴えるブリジットに、なぜか楽しそうにジョセフがクスクスと笑う。
どうして、と声もなくブリジットはそんなジョセフに問いかけた。
(どうして、私が不実を働いたように言うの?)
何もかもが違うのに。
それが真実のように振る舞うジョセフのことが、理解できない。
「……昨日も、お伝えした通り……わたくしはもう殿下の婚約者でもなんでもありません」
「うん。それで?」
緊張で喉が震えた。
それでも、つっかえずになんとか伝える。
「――本日も用事がありますので、殿下と一緒に帰ることはできません」
「そうか。残念だな」
ジョセフは感情の薄い顔で頷き、気を取り直したように微笑んだ。
「じゃあ、明日はどう?」
立ちすくむブリジットの耳元に、そっとジョセフが口を寄せた。
「君、まだ俺のことが好きなんだろう?」
「…………、」
「この誘いに頷くなら、今日はこれで引き下がるけど」
つまり、ブリジットが首を縦に振らないのなら、この場で聞こえの悪い話を延々とするということなのか。
(ほとんど脅しだわ……)
それにしても、よく分からない。
ジョセフはどうして、今さらになってブリジットに近づいてきたのだろう。
ブリジットに執着する理由なんて彼にはないはずなのに。
(心優しく、嫌われ者の"赤い妖精"に手を差し伸べてくれた王子様)
国民からもジョセフは慕われている。
むしろブリジットから泣いて縋るほうが、よっぽど現実的だと思われそうだ。
「ね、ブリジット?」
ジョセフが笑う。
それでもブリジットが頷かないからか、ジョセフは少し苛立ったようだった。
近づいてきた彼の手が、ブリジットの肩を強引に引き寄せようとする。
その瞬間――背後から、凛とした声音が響いた。
この場に居ないはずの人の声が。
「彼女に触らないでもらえますか」
振り返るブリジットの目の前で。
教室に乗り込んできたのは、ユーリだった。
クラスメイトたちが慌てて道を空ける。
その真ん中を当然のようにまっすぐと、青い髪を靡かせてユーリが進んでくる。
驚きのあまり、ユーリ様、と声もなく呼ぶブリジットの傍までやって来ると。
ポカンとしているジョセフの手から奪うように、ユーリはブリジットの肩を抱き寄せた。
(えぇ――!?)
状況も失念し、思わず真っ赤になるブリジット。
しかしユーリはすぐにブリジットから手を離すと、そのままジョセフと向かい合った。
身長差があり、自ずとユーリが見下ろされている形となるが……
「…………ユーリ・オーレアリス」
ジョセフが唸るように名を呟く。
先ほどまで浮かべていたはずの余裕の笑みは消えていて、今のジョセフは平静さを欠いているようにブリジットに見えた。
(そういえば、以前もそうだった……)
リサに冷たくしたというユーリを注意していたとき。
あのときもユーリを相手に、ジョセフは苛立った様子で声を荒げていたのだ。
「君は本当に厚顔無恥な男だな。いっそ尊敬するよ」
「その言葉はそのままお返ししましょうか」
ジョセフが眉を顰める。
明らかに、昨日の朝のやり取りをユーリは再現していた。
しかしその上で今、ジョセフを前にして一歩も引かずにいる。
「畏れながら申し上げます、殿下」
「……なんだ」
憮然とするジョセフに、ユーリは冷たい目を向けると。
「ご自身の昔の婚約者に対しての振る舞いの数々、些か以上に見苦しいと思いますが」
「…………ッ!」
昔の、と強調するユーリ。
歯に衣着せぬ物言いに、ジョセフの瞳に殺意にも近い光が芽生えた。
それを間近で目にしたブリジットは思わず身体を震わせる。
するとジョセフははっとしたように、微笑みを形作り――ブリジットに向かって口調だけは穏やかに訊いてみせた。
「彼はこんなことを言っているけど……ブリジットはどう思う?」
ジョセフの、そして教室中のクラスメイトたちの視線がブリジットへと注がれる。
注目されるのはいつだって苦手だ。だから普段だったら、それだけでまともに喋れなくなったかもしれない。
(でも、今はユーリ様が隣に居る)
周りに立つニバルやキーラも、心配そうにブリジットを見守ってくれていて。
胸ポケットの中で小さくなっているぴーちゃんの温かさだって、確かに感じているから。
「……そうですわね」
ブリジットは頬に手を当てた。
それから、物憂げにフゥと溜め息を吐く。
「申し上げにくいのですが、わたくしとしても、今後もジョセフ殿下に付きまとわれては困ります」
「…………なんだって?」
ブリジットは顔を上げた。
そして、朗らかに笑って言い放った。
「わたくし、好きな人が居ますので」
――その瞬間。
全ての時間が止まったかのように、ブリジットには感じられた。
しかしもちろんそんなわけはなく。
ブリジットはコホンと咳払いをすると、周囲と一緒に固まっているユーリに促した。
「それでは失礼します。行きましょう、ユーリ様」
「あ、ああ……」
どこか呆然としているユーリと共に教室を出るブリジット。
廊下にもちらほらと野次馬が居たが、お構いなしに廊下を進む。
顔には笑みを貼りつけたまま。
しかし本当は、今すぐその場に座り込みたいくらいだった。
(ああ、言っちゃった……!)
――人前で、告白なんてするつもりではなかった。
そもそも、この気持ちはそっと胸の奥に仕舞い込んでおくつもりだったのだ。
(ちょっと泣きそう……)
だってユーリが、自分のことをなんとも思っていないことなんて分かりきっている。
それをこうして自惚れたような言動をして、果たして彼はどれほど呆れていることだろう。
確認するのが怖くて、先ほどから話しかけられずにいる。
しかし容赦のないその人は、そんな心の葛藤さえも放っておいてはくれないのだ。
「……ブリジット」
立ち止まらないまま。
恐る恐ると隣を見れば、ユーリは怖い顔をしていて――それだけで心臓が小さく縮んだようだった。
そして、緊張で震え続けるブリジットに向かって。
ユーリは固く張り詰めた声で訊いてきた。
「……………………好きな人って、ニバルか」
ブリジットは
そして危うく転倒しかけた。
(ど――どうしてそうなるの!?)
だってブリジットは「好きな人が居る」と宣言したのだ。
その言葉のあとにはユーリに呼びかけ、彼と共に教室を出てきたのである。
その時点で、ブリジットの意中の相手が誰かなんて、あの場に居た全員がはっきりと理解したはずだ。
表情は確認できなかったが、ジョセフだってそうと認識したことだろう。
それなのに渦中のユーリは、なぜか苦しそうに眉間に皺を寄せていて。
「ち、違います……級長では……」
ありません、とどうにか首を横に振るブリジットだったが、さらにユーリは真剣な表情で、わけの分からないことを言ってきた。
「では、あの……お前の家の若いパティシエか」
(違――――う!!)
怒鳴りつけたいくらいに目の前が真っ赤になるブリジットである。
ニバルやカーシン以外に、親しくしている同世代の異性なんて……もう、たったひとりしか居ないのに。
どうして張本人であるユーリは、困った顔をしてこっちを見ているのだろう?
頭が良くて、すごい精霊たちと契約していて、誰よりも格好良いはずの人が――こんな簡単な問題の答えが分からないのだろう?
(で、でも……)
だが、だからこそ――言えない。
今さら言えるわけがない。
言ったら、もう、それはやっぱり告白同然なのである。
先ほどは勢いで宣言できたが、二人きりの今、改めて告げる勇気なんてブリジットには残っていない。
しかしユーリはブリジットの事情なんてお構いなしに、熱心にさらに問いを重ねてきて。
「僕の知っている相手か」
「しっ、知っ……ているというか」
「そうなのか。そうなんだな? まさかとは思うが、クリフォードなんてことは――」
「し、ししし知りませんわっ!!」
(もうやめてええ~っ!!)
いつぞや、湖畔で過ごしたあの日のように。
いよいよ耐えきれなくなったブリジットは、その場から走って逃げ出したのだった。
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