第63話.手を離さないで
(……なんでこんなことばかり思い出しちゃうのかしら)
その日は、正直授業どころではなかった。
ぐるぐると頭の中には、ジョセフのことや過去の記憶が甦ってきて。
授業の内容はまるで頭に入ってこなくてげんなりしてしまう。
けれど、そんなことより何よりも――ずっと気になっているのは、今朝のユーリのことで。
『彼女に何をしたのか、正しく自覚がおありですか?』
きっと、ブリジットのことを思って。
そう厳しく問うたユーリに向けて、ジョセフは笑いながら言い放ったのだ。
(『その言葉はそのまま君に返す』って、どういう意味なのかしら……)
あのとき。
ユーリの表情がほんの一瞬、凍りついたようにブリジットには思えた。
もっと踏み込んだことを勝手に考えるなら、ユーリが傷ついたようにも見えたのだ。
それが気になって仕方がなくて、何も手につかない。
今朝のことは噂で聞いていただろうに、ニバルやキーラは何も訊いてこない。
クラスメイトたちも同様だ。そんな彼らの気遣いがありがたかったが、まともに反応も返せなかったのが申し訳なかった。
そうして集中できないまま、一日の授業が終わったあと。
望み薄だと思いながらも、ブリジットは図書館へと向かうことにした。
図書館の脇にある石畳の道を歩いていけば、庭師によって手入れされた庭園が広がり――その先に、ぽつんと小さな
蔦に覆われた四阿のほうをじっと見れば、青い後頭部を発見して。
ブリジットは思わず足を止める。
しょっちゅう、ここで彼と会っていたのに……なぜか自分でも少し驚いていた。
(なんとなく今日は、居ないような気がしてた……)
いつものように読書しているのだろう。
ユーリの手元には文庫本があって、しかしページを捲る音はいつまでも聞こえてこない。
どうしてだろう、と気になって身を乗り出したところで、革靴の裏がカツン、と石畳に当たって音を立てた。
ブリジットは少々焦ったが、ユーリは振り返らない。間違いなく気配には気づいているだろうに。
意を決して歩き出したブリジットは、ユーリの正面まで進み出ると口を開く。
「ユーリ様、その……」
しかし目が合った途端、口を噤んでしまう。
今回の件について――ユーリに弁明したいとか、弁解したいと考えていること自体、何かおかしいような気もする。
(だって、ユーリ様と私は……ただの競争相手でしかない……)
そんな声にならない言葉を感じ取ったのか。
「最近様子がおかしかったのは、このことか?」
ユーリのほうから、そんな風に問い掛けられる。
「……そう、ですが……」
「……良かったんじゃないか」
「え?」
「もともと好きな相手だったんだろう」
なぜか、どこか投げやりな口調でユーリが言う。
本を捲る音が冷たく響く。呆然として、ブリジットはユーリのことを見下ろしていた。
以前、確かにブリジットはジョセフのことが好きだったと話した。
そんなブリジットの昔話を、ユーリは静かに聞いてくれた。誰にも話したことのない、つまらない過去の話に耳を傾けてくれた。
そしてブリジットに恋されたジョセフは幸せだったのだろう――とまで言ってくれたのだ。
だから今、ジョセフがやり直したいと言い出したことを祝福してくれている。
ジョセフの婚約者に戻るのがブリジットの幸福だろうと、ユーリは思っているのだろう。
それは、何もおかしいことではない。
(でも……)
今は、それが嫌だった。
とてつもなく嫌で、仕方がなくて……ブリジットは思わず言い返していた。
「よ――良く、ありません」
「……良くないのか」
「ぜんぜん、良くありません! だってわたくし……」
――あなたが好きだもの、と。
そう言いたいのに、うまく口が回らない。
伝えたいのに、拒絶されるのが恐ろしい。
胸元のポケットから、小さく『ぴ……』と鳴く声がした。
ブリジットの感情に呼応したように、契約精霊の声は掠れていた。
「……もういいか? 僕は帰る」
ユーリが本を閉じて立ち上がる。
いい加減、付き合いきれないと思ったのだろう。
呆気なく背中を向けて、そのまま彼は立ち去ろうとした。
「…………っ」
だが、そんなユーリはほんの数歩でぎこちなく立ち止まる。
というのも――後ろから、制服の裾を弱々しく引っ張る手があったからだった。
「……僕にどうしてほしいんだ。お前は」
振り返らないまま、呆れたようにユーリが言う。
そんな彼の制服の裾を、右手でぎゅうと掴んだまま、ブリジットはひたすら考える。
ユーリにどうしてほしいのだろう。何がしたいのだろう。
自分でもよく分からない。
今も、彼を困らせているだけだと分かっているのに――それでも。
「……良く、ないの。ちっとも。……だから」
「だから?」
目頭が熱くなる。全力疾走したあとのように呼吸が苦しい。
少しでも気を抜けば涙が込み上げてきそうで、それを無理やり抑えつけながら。
情けないほど震える声で、呟いた。
「だから、距離……………………取らないで」
傍から居なくならないでほしい、と。
それだけを伝えるのが精いっぱいで、限界で。
小さく、ユーリが息を呑んだようだった。
「……うん」
短く答えたユーリが、制服の裾を握ったままのブリジットの手を取った。
服の下の心臓が弾むように不規則に跳ねる。
それで結局、目の縁と目尻からぽろぽろと涙がこぼれ落ちてしまう。
「分かった」
「…………」
「分かったから泣くな」
「…………」
「お前に泣かれると……少し困る」
ずび、とブリジットは鼻を啜った。
「……泣いてません」
「…………は?」
ユーリがくるりと振り返った。
何かと思えば、おもむろにブリジットの目元に触れる。
骨張った指先が濡れるのもお構いなしに拭われてしまい、ブリジットがぽかんとしていると。
「どこがだ。泣いてるだろう」
「……っ!」
触れそうなほど至近距離で、どうだというようにユーリが言い放った。
その瞬間、ぶわぁ――と熱が広がっていく。
だって、覗き込むユーリの瞳の中に自分の目が見えていて。
これではまるで、唇を寄せ合っているかのようで。
未だに、右手と右手も繋いだままなわけで。
(距離を取らないでとは言ったけど、近すぎるわっ……!!)
「ほら、強がらずに認めろ。思いっきり泣いてるぞ」
「み――認めます。認めますから……!」
もはや涙なんてとっくに引っ込んでしまっているが、ブリジットは必死に首を動かした。
ようやく、満足げにユーリが手を離す。ブリジットは後ろに一歩下がり、その場にしゃがみこんでしまった。
「どうした、ブリジット。大丈夫か?」
答える体力は残っていなかった。
ブリジットは心の中でユーリを力いっぱい罵倒した。
(大丈夫なわけないでしょうばかばかばかぁ!!)
そのまましばらく、ちょっぴりずれた二人の問答は続いたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます