第62話.白馬の王子様だった

 


 幼い頃のブリジットにとって、周りは怖い物だらけだった。


 両親が怖い。炎が怖い。暖炉が怖い。

 嘲笑う人の声が怖い。人の集まりが怖い。何もかもが、恐ろしくて仕方がない。


 そんな辛い日々の中、唯一、笑って手を差し伸べてくれたジョセフは――まさしく物語の中の、白馬に乗った王子様そのものだったのだと思う。


「ブリジット。また誰かに悪口を言われた?」


 背後から声を掛けられ、ブリジットは慌てて頬を流れる涙を拭った。


 確か六年くらい前のことだ。

 それはとある伯爵家主催の、お茶会での出来事だった。


 ジョセフのパートナーとしてその場に招かれたブリジットは、最初は伯爵夫人と、その娘である令嬢たちの輪の中に入って、ぎこちないながら笑みを見せていた。

 だが次第に、話題は取り替え子チェンジリングへと移り……この王都でも、赤子を精霊に奪われたと訴える女性が居るようだと言い始めたのだ。


「やだ、怖い! せっかく生まれた赤ん坊を精霊と取り替えられちゃうなんて」

「私がお母さんの立場だったら、絶対に許せないわ。赤ちゃんの振りをした精霊を鍋で煮てしまうかも」

「あら。鍋よりも暖炉の、燃える炎の中に入れてやればいいんじゃないの」

「でも、暖炉に腕を入れたのに正体が分からなかった例もあるんですって!……ねぇ、ブリジット様?」


 クスクス、と嘲笑う声と共に、いくつもの視線がブリジットに突き刺さる。

 彼女たちの目は、白い手袋に包まれたブリジットの左手をじっと見ているようだった。


 父親に焼かれた手。

 醜い火傷跡の残った手を。


 耐えられずブリジットはその場から逃げ出していた。

 そして隠れてひとりで泣いていた。そこを追い掛けてきたジョセフに見つかったのだった。


「……ごめんなさい、ジョセフ様」


 鼻を小さく啜って、ブリジットは謝罪の言葉を口にする。


 王子の婚約者、いずれ王子妃となる人間として、相応しくない態度だというのは分かっている。

 誰に何を言われようと、凛として、堂々として振る舞うべきなのだ。そうしなければ、ジョセフの隣に立つことはできない。


 そう分かっているのに、公の場に出るといつも震えが止まらなくなる。


 真っ赤に泣き腫らした瞳をしたブリジットを痛ましげに見遣り、ジョセフは苦い微笑みを浮かべる。


「大丈夫だよ、ブリジット。今度からこういう催しには無理に参加しなくていい」

「ジョセフ様……でも……」

「心配しないで。俺ひとりでどうにかするから」


 ブリジットは言葉に詰まる。


 本当は克服したかった。周囲に嘲笑われるような自分から変わりたいという思いがあった。

 もしもジョセフが隣に居てくれるならば――いつか、そうできるはずだと思ってもいた。


 だけどジョセフは無理をしなくていい、と言う。


(我が儘を言って、ジョセフ様を困らせるわけにはいかない……)


 ブリジットが「分かりました」と遠慮がちに言うと、ジョセフは満足げに頷いてくれた。


 そうだ。

 ジョセフはいつだってブリジットに優しかった。

 柔らかな真綿でくるんだような態度で、いつも接してくれたのだ。


 だけど少しずつ、ジョセフは変わっていった。



「俺、馬鹿な女ほど可愛くて好きなんだ」



 きっかけはその言葉だった。

 ピンク色の服を着ろ、やかましく喋るようにしろ、化粧を濃くしろ、テストの点を悪くしろ……そんな要求をされるたびに、ブリジットは努力をした。


 ――愚かなブリジット・メイデル。

 ――父親に捨てられた、惨めな"赤い妖精"。


 そんな言葉が聞こえてくるたび、心のどこかは悲鳴を上げていたのだろう。

 それでもジョセフの好みに近づけるならば、と必死だった。


 それなのに、彼の言葉に従い、気弱な自分を無理やり捨てていくたびに、なぜか彼との距離はどんどん離れていって。


 魔法学院に入学してからは、より一層、ジョセフとの関係は悪くなっていった。


「ジョセフ様。一緒に帰りませんか?」

「……ごめん。今日は少し用事があるんだ」


 隣のクラスのジョセフとは、学院内だとあまり関わる機会がない。

 だからブリジットは勇気を振り絞り、何度か彼の教室を訪ねたが、返答はいつも素っ気ないものだった。


 冷たい返事をされるたび、ではぜひまた今度、と気にしていない風を装ったが……本当は、ずっと前から気がついていた。


 ジョセフが、同じクラスの女生徒と親しげにしていること。

 彼女を空き教室に連れ込んで、数時間出てこないときがあること。

 パーティーには彼女を連れて出席し、ダンスを踊っていること。


 ブリジットが調べずとも、周囲から聞こえてくる悪意ある囁きは、ジョセフと彼女の関係を毎日のように知らしめてくれる。


 リサ・セルミンという名前らしい男爵令嬢と、ブリジットは直接話したことはなかった。

 しかし何度か見かけたリサは可愛らしく……ブリジットとは違う、自然な笑顔が印象的な少女だった。

 本当はああいう子が好みだったのかと、ぼんやりと考えた。


 でもブリジットは、ジョセフに何も言えなかった。

 経緯はともかく、五歳の頃から正式な婚約者なのだから、一言くらいは彼の不実を責めても良かったのかもしれないが――自分が優しい彼に相応しくないことは分かっていたから。


(私が悪いんだわ……ジョセフ様は何も悪くない、私が駄目な人間だから、呆れられてしまっただけで……)


 だから、家に帰るたびに毎日ひとりで泣いていた。


 いつまでも変われない自分が恥ずかしくて、悔しくて。

 ジョセフに愛されない事実が何よりも苦しくて、でもどうしようもできなくて――。


 そしてそんなブリジットに、ジョセフは告げたのだ。



「ブリジット・メイデル。俺はお前との婚約を破棄させてもらう!」



 だから、あの瞬間も――心の中で、本当は思っていたのだ。

 笑い出したくなるほどに、悲しくて。



(ああ。…………私、また捨てられちゃった)



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