第61話.元婚約者の謝罪

 


 ――話は、その日の早朝に遡る。


 オトレイアナ魔法学院の夏期休暇も終わり、本日から新しい学期が始まる。

 一ヶ月ぶりに制服を着用して、身支度を整えたブリジットは、馬車の到着を待つまでの間、自身の契約精霊と戯れていたのだが。


(やっぱり、ちょっと大きくなってる……?)


 大きいというか、太ったというか。


 手乗りサイズのぴーちゃんは、どことなく横幅が広がっていた。

 ずんぐりむっくりした身体から、細っこい足が生えている姿には愛嬌がある。


 精霊とは、人間とは比べものにならないほどの悠久のときを生きる存在だとされている。

 大気中のマナから次々と生まれるとされる精霊たちの中には、幼体の姿で生まれるものも居て、それらは気が遠くなるほど長い時間を掛けて少しずつ成長していく。

 血縁関係こそないものの、人間を真似て擬似的な親子関係が育まれることもあるそうだ。


 だから、このように短時間で姿が変わるというのは聞いたことがないのだが――ぴーちゃんが成長するきっかけの出来事には、ひとつだけ心当たりがある。


(別荘で、ぴーちゃんは私が出した炎の塊を食べた……)


 食事、と言っていいのかは分からないが、もしかするとあれがきっかけだろうか。

 以前エアリアルの巻き起こした暴風も、おそらくはブリジットを庇ってぴーちゃんが食べたようだし。


(この子は――魔法を食べると大きくなるのかしら?)


「ぴーちゃん。あなたこのまま、ニワトリになるの?」

『ぴ……?』


 よく分かっていないのか、ぴーちゃん本人は「どういうこと?」みたいな感じで首を傾げている。


「お嬢様!」


 そこに勢いよく部屋の扉を開けられた。


「シエンナ?」


 ブリジットは目を丸くする。

 立っていたのは肩で息をするシエンナだ。いつも冷静な彼女が取り乱しているのは珍しい。


 ブリジットは思わず立ち上がった。ただごとではないと本能的に悟ったからだ。

 ぴーちゃんはブリジットの腕を駆け上がり、定位置の胸ポケットへと収まる。


『ぶちっ!』みたいな、糸が切れるような音がしたが、とりあえず気づかない振りをする。

 ……いや、やっぱり馬車の中でポケットの内側を縫い直したほうがいいかも。


「どうしたのシエンナ。そんなに慌てて」


 シエンナは慌てていたのに、逡巡するような表情を浮かべてから。

 苦虫を噛み潰したような顔と声音で、一息に言ったのだった。


「……ジョセフ・フィーリド殿下が玄関前にいらっしゃっています」





 ――つい数分前の出来事を思い出し、ブリジットは溜め息を吐きたくなる。

 結局、正面に座る人物が居たので思いとどまったのだが。


 ブリジットは現在、学院へと向かう馬車の中、ジョセフと向かい合って座っていた。

 というのも今朝、唐突に姿を現わした彼が一緒に登校しようと誘ってきたためだ。


「ブリジット。怒ってるの?」

「…………いいえ、そのようなことは」


 ジョセフの問いに、固い声で答える。

 彼だって分かっているはずだ。一介の伯爵令嬢が、王族であるジョセフ直々の誘いを断れるはずもないのだと。

 そんなことをすれば、ますますブリジットの立場は危うくなってしまう。


「……申し訳ございませんが、今後このような行為はどうかお止めいただけませんか」

「どうして?」

「わたくしはもう、あなたの婚約者ではないからです。ジョセフ殿下」


 そう言って、ブリジットは不自然でない程度に目線を上げる。


 ジョセフ・フィーリド。

 金髪に同色の瞳を持つ、この国の第三王子。

 整った顔立ちに甘い笑みを浮かべた彼と向き合っていると、時間が巻き戻ったかのような錯覚を覚えそうになった。

 だが、それがただの錯覚であるのだとブリジットは理解している。


 ジョセフも、同じようなことを考えていたのだろうか。

 少し寂しげに彼は笑った。


「前みたいに、ジョセフ様って呼んではくれない?」

「…………!」


 ブリジットは絶句した。


 多くの人の前で、ブリジットを晒し者のようにして婚約を破棄したのはジョセフだ。

 彼はリサを虐めたとブリジットを断じて、何を言っても冷たくあしらい、ひとつも信じてはくれなかった。


 それなのに今、何事もなかったように振る舞っている。


「……ごめんね、ブリジット」


 彼の手が伸びてくる。

 咄嗟に、ブリジットは後ろに身を引いた。

 車窓に後頭部が当たる。気まずい沈黙が車内に影を落とす。


 行き場をなくした手を呆然と見つめ、ジョセフは苦笑いをした。


「そうだよね、セルミン男爵令嬢の言うことばかりを信じて、俺は君を深く傷つけてしまった……本当に申し訳なく思ってるんだよ、ブリジット。だからこそ、君とやり直したいと思っているんだ。……夏期休暇前に伝えた通り、ね」


 ブリジットは答えられない。

 ただ、強い困惑の滲む瞳でジョセフを見返す。


(――私は、この人が好きだった)


 恋とは呼べないほどの、淡い淡い感情だった。


 父に虐待され、別邸しか居場所がなく、誰からも嗤われて過ごしていたとき――ジョセフだけが、ブリジットに優しく手を差し伸べてくれたのだ。

 そのことに感謝していたし、恩も感じている。ジョセフのためになんでもしようと心から思っていたし、婚約していたときは彼の言いつけは全て守っていた。


「それとも」


 急に、ジョセフの声の温度が下がる。

 ブリジットは肩をびくりと震わせた。


「誰か、他に好きな人でもできた?」

「……それは……」


 馬車が停止した。

 そのことに少し救われたような心地になったが、もちろんそれで終わるはずもなく。


「お手をどうぞ」

「……ありがとうございます」


 慣れた調子でエスコートしてくるジョセフにぎこちなく応じ、ブリジットは馬車を下りる。

 途端に、周囲にざわめきが走った。


(注目を浴びてる……)


 当然のことだった。

 二人をここまで運んできたのは、王族御用達の豪奢な白馬車だ。

 しかもその中からジョセフに手を取られ、元婚約者であるブリジットが姿を見せたのだから――これで注目されないはずがない。


 今日は学院中が、このことで騒ぎになるのだろう。そう思うと憂鬱だった。


 そしてブリジットは、この状況を最も見られたくない相手が近くに立っていたのに遅れて気がついた。


「ユーリ様!」

「――――、」


 僅かに目を見開き、こちらを注視しているユーリ。

 背後を見れば、以前別荘に行く際に乗せてもらったオーレアリス家の馬車が止まっていて。


「やあ。おはようユーリ」


 凍りつくような空気を物ともせず、ジョセフが親しげに挨拶する。

 ユーリは答えなかったが、ジョセフはそのまま続けた。


「今日はブリジットと一緒に登校したんだ。俺は彼女とやり直したいと思っていてね」

「は?」


 思わず、といった様子でユーリが聞き返す。


「彼女に何をしたのか、殿下は正しく自覚がおありですか?」


 ほとんど「頭おかしいんですか」レベルの問い掛けだ。

 王族に対して、不敬どころではないが……ブリジットはユーリの言葉が嬉しかった。


 だが、ジョセフは余裕の笑みを崩さずに言い放つ。




「その言葉はそのまま君に返すよ、ユーリ・オーレアリス」




 そのとき。

 ユーリは一瞬、虚を突かれたような顔をした。


 ブリジットにはそう見えた。


「それじゃあ行こうか、ブリジット」

「え、あ……」


 戸惑うブリジットの背を無理やり押し、ジョセフが歩き出す。

 この場に残りたかったが、俯いたユーリはどこか、ブリジットのことも拒絶しているように思えて。


 何度振り返っても、ユーリはまだ停車場から動かないままだった。



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