第55話.氷の精霊
どう? と悪戯っぽく笑いかけると、ブルーは目をまんまるに見開いた。
氷の精霊フェンリル。
巨大な狼の姿をしたフェンリルは、氷より生まれ出るとされる最上級精霊だ。
凍りついた大地を群れで走り回り、その大地ごと世界を揺らす獰猛な獣とされている。
フェンリルが人に化けるという話は聞いたことがないので、『精霊図鑑』等の書物の内容は更新が求められるところだ。
しかし指摘と同時、ブルーはかなりオロオロとしていた。
よほど変化に自信があったのだろう。
「な、なんでわかった?」
「モフモフの大きな尻尾が出てるから」
ぱっとブルーが背中に触れる。
それから、ムッと眉を吊り上げると。
「出てないぞ!」
「引っ掛けよ。今は出てないわ」
正しくは昨日、扉の隙間から水色の尻尾が見え隠れしていたのである。
「は!?――だましたな! ブス!」
「ブス!?」
ブリジットは素っ頓狂な悲鳴を上げた。お年頃の女性に向かって、それは禁句である。
(確かに私は可愛くないけど!)
思わずベッドから出て抗議した。
「いくらユーリ様に似て可愛い顔してるからって、言って良いことと悪いことがあるわよ!」
「ほんとのこと言っただけだ! ブスブスブース!」
「い、一度ならず四度までも……っ!」
唸るブリジットに、「べー!」と舌べらを出してくるブルー。
なんて生意気なガキんちょなのか。ブリジットがぶるぶると拳を震わせると。
「おい。騒がしいぞ」
「ユーリ様!」
「ますたー!!」
ユーリがあきれ顔で扉を開けたので、慌ててブリジットはベッドに戻った。
ブルーはといえばユーリに甘えるようにしがみついている。
「ますたー、あの女がボクをいじめてくるんだ! ぼこぼこにして!」
「お前も病人相手に絡むな」
ユーリは足元に絡みつくブルーに鬱陶しげだが、「でもでも!」とブルーは言うことを聞かない。
その様子は、まるで年の離れた兄弟が無邪気にじゃれているかのようで、絵面としては愛らしいものなのだが。
(でも内容はサイアクだわ!)
「違いますの、ユーリ様! いじめられているのはわたくしですわ!」
負けじと声を張り上げるブリジットを見て、ユーリは深い溜め息を吐く。
「お前も精霊相手に何を張り合ってるんだ……」
「ますたー! ボクを信じてくれるよね?」
「ユーリ様! わたくしを信じてくださいませ!」
必死のアピールを続ける二人。
ユーリはそれぞれを胡乱げな目つきで見ると。
やがて、ブルーに向かって言った。
「……厨房でパティシエが芋の菓子を作っていたぞ」
「おいも!?」
ぱぁっと顔を輝かせたブルー。
かと思えば、瞬きのあとにその姿は四足歩行の狼――フェンリルへと変じていて。
(お、大きい……!)
氷の吐息を吐き出す巨大な狼の姿を見上げ、思わずその迫力に圧倒される。
『じゃあボク行ってきまーす!』
しかしテンションは何一つ変わらず。
少しくぐもった子どもの声で宣言すると、ブルーは開いたままの扉から出て行った。
獣の足音はすごい勢いで遠ざかっていく。
もはやブリジットとの小さな争いのことなど、記憶の彼方となったのだろう。
(ユーリ様、あしらい方が手慣れているわ)
手際の良さに感心していると、彼は次にブリジットを見てきた。
何かと思えば、問題児を見る目である。
「ブリジット。病人なんだから大人しく寝ていろ」
(うっ……)
諭すように言われ、恥ずかしくなったブリジットは再びベッドに潜り込む。
「でも。だって、ブルーが……」
そこではっとブリジットは口元を覆った。
「どうした?」
「すみません……わたくし、勝手にユーリ様の精霊にあだ名をつけてしまって」
「別にいい。本人も気に入っているようだから」
(気に入ってる……そうなの?)
意外な発言にブリジットが小首を傾げていると。
近づいてきたユーリが、ふいにブリジットの額に手をかざした。
「…………っ!」
どきりと鳴る心臓に気づくことなく、ユーリが囁く。
「まだ、顔が赤いな」
彼の手のひらから、冷気が流れ込んでくる。
熱冷ましに氷魔法を使ってくれているのだ。ブリジットは思わず目を閉じた。
(冷たくて、気持ち良い……)
その姿勢のまま、ユーリが静かな声で話しかけてきた。
「明日には僕も家に帰ろうと思う」
「はい。……あの、長い間ありがとうございました」
「僕が勝手にやったことだ」
合計すると三日間、ユーリはずっとブリジットの傍に居てくれた。
昨日は彼の従者であるクリフォードも様子を見にやって来て、見舞ってくれたのだ。
この別邸にも貴賓室があって良かった、と心の底からブリジットは思う。
別邸つきの使用人は少ないが、全員がよく仕えてくれる一流の使用人たちである。
主人でありながら倒れたブリジットに代わり、ユーリのことをしっかりと歓待してくれたようだ。
「今週はゆっくり休むようにな」
「しばらくは、予定は何もないので大丈夫ですわ……ああでも再来週はキーラさんと一緒に、ニバル級長の別荘に行きますのよ」
夏期休暇終わりの約束だ。ブリジットはちょっとわくわくしていた。
というのも家族から絶縁されたも同然の状況である。
メイデル伯爵家の領地にも、十二年前からブリジットだけは戻っていないし、ひとりで旅行したことも一度もない。
領地には立派な別荘があり、その周辺で遊んだ記憶はあるものの……それはあまりにも朧げな記憶だった。
「そうか」
淡々と頷いたユーリが、何気なく続ける。
「なら僕もついていく」
(…………え?)
ブリジットは目を開き、ぱちくりと瞬きをした。
それから、その言葉が脳に浸透していくに従って。
「…………え!?」
大声に驚いたのか。
『ぴ!?』と叫んだひよこ精霊が、毛布の上でジャンプした。
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