第50話.強くなりたかった
「…………ユーリ様?」
呼び掛けると、すぐ近くで気配が身動ぎする。
右手に触れていた気がした温もりが、一瞬にして遠ざかっていく。
「目が覚めたか」
ベッドのすぐ横に置いた椅子に浅く腰かけた。
窓から射し込む青白い月光を背にしたユーリが、ほっとしたように目元を和ませた。
「どこか痛むところはないか?」
「いいえ……平気、です。あの、ユーリ様……」
「なんだ」
――今、手を握ってくれていたのはあなたですか。
(私の気のせいじゃないなら、あのときも……)
訊きたい。
彼に訊いてみたい。
だけどどうしたって、今はもう離れている手を、自分から繋ぐ勇気なんかブリジットにはなくて。
「あの、……えっと、今は何時ですか?」
結局、胸に浮かんでいた言葉を口にはできなかった。
そうしてぎこちなく問うと、ユーリがさらりと答える。
「もう深夜だな」
「えっ!」
飛び起きそうになるブリジットだったが、うまく身体に力が入らない。
するとユーリはすぐに気がついたのか、遠慮がちにブリジットの腰を支えて上半身を起こしてくれた。
それから脇台に置いてあった硝子製の水差しを手に取ると、グラスに水を半分ほど注ぐ。
ブリジットは唖然とした。彼がそんな風に甲斐甲斐しく面倒を見てくれるなんて、信じられなかったのだ。
そして――実のところ、ちょっと見惚れてしまっていた。
ユーリの動きは妙に様になっていた。
「飲めるか?」
「は、はい。ありがとうございます」
差し出されたグラスを慌てて受け取る。
舌の上を滑っていく水は、ちょうど良い具合に冷えていた。
一口だけと思っていたのに、すべて飲み切ってしまったブリジット。
すると少しずつ、ふわふわとしていた思考が明瞭になっていく。
(………あれ。ここ、私の部屋よね?)
あまりにも見慣れた景色である。
しかしブリジットには分からない。何故ユーリが自分の部屋に居るのだろう。
しかも二人きりで。深夜に。
(ええと。庭で倒れかけて、ユーリ様が来てくれたことは覚えてるけど……)
そしてブリジットはさらに重大な問題に気がついた。
自分の格好を見下ろしてみて。
(………………………寝間着)
いや。
いやいや、と首を振る。
さすがにユーリが着替えさせた、なんてことはないだろう。そんなことはシエンナが許さない。
侍女たちが身を清め、着替えさせ、それでベッドに寝かせてくれたのだ。そうに違いない。
でも恋人でもない殿方に寝間着姿を見られるというのは――。
……いや、それ自体には不思議と嫌悪感がないのだが、それにしたって問題だらけだ。
(か、髪の毛も寝てたからぐちゃぐちゃだし。お気に入りの寝間着だけど、ちょっと皺になっちゃってるし)
それに肌に触れた感じ、化粧もしていないスッピンだ。いろいろ散々である。
ユーリの見ている前で、こんな格好はあまりに恥ずかしい。
早急に髪を梳かなければ。それに服の皺を伸ばして、顔も整えなくては。
「ユ、ユーリ様。わたくし身だしなみを整えてまいりま」
「それはお前なりの
ぴくりとも表情筋を動かさずに、ユーリが見返してくる。
ブリジットは「すみませんでした」と頭を下げた。
「珍しく素直だな」
「……大失敗をしましたので、さすがに」
ブリジットが凹んでいると分かったのか、追撃せずにユーリが説明する。
「つい数分前までお前の侍女たちも傍に居たんだが、全員ひどい顔色だから休むように言ったんだ」
「そうだったのですね……」
ということは、とブリジットは気がついた。
「もしかしてユーリ様は、ずっとわたくしについていてくださったんですの?」
もう、ブリジットが倒れてから十三時間ほどは経っているはずだ。
だがユーリは事もなげに頷く。ブリジットは大きく目を見開いた。
「といっても当然、別室で食事を取ったりはした。僕だけがつきっきりだったわけじゃないしな」
(それにしたって……)
ベッドの下を見れば、床には水桶が置かれている。
首元を冷やしてくれていたのだろうか。今さら気がつけば、枕元には濡れた布が丸めて置かれていた。
看病のお礼を伝えようとしたが、それより早くユーリが固い口調で言った。
「それで、ブリジット。昼間の件についてだが――どうしてあんな真似をした?」
その厳しさに、思わずブリジットは口を噤む。
表情こそ無表情だが、ユーリが怒っているのは確実だ。そして、怒られるようなことをした自覚もある。
そのせいでブリジットは、顔を俯かせてボソボソと口を動かしてしまう。
「それは……自分の契約精霊に会いたかったからですわ」
「そのために正しいのが、無理やり炎に慣れることだっていうのか?」
「炎を恐れている限り、精霊は出てこられないと思って」
「ブリジット」
聞き分けのない子どもを窘めるような声音で、ユーリが呼ぶ。
「前に、リサ・セルミンに追い詰められたとき――怖かったって言っただろう、お前は」
まさかあのときのことを引き合いに出されるとは思わず、ぐっと言葉に詰まるブリジット。
しかし、これで言いくるめられてはいけないと思ってしまった。
「……言いましたわ。でも、それでは駄目だから」
「ブリジット」
さらに強く。
咎めるように名を呼ばれて――彼の手が、頬に触れた。
「っ」
ブリジットは息を呑む。
まるで恋人に、そうするような。
あんまりにも優しい手つきに、心臓が止まりそうになる。
「怖かったって言ったんだよ」
顔を上げると、椅子から腰を上げた彼は、言い聞かせるように繰り返した。
ぎゅうと窮屈そうに寄った眉根。どこか苦しそうな双眸が、ブリジットを見つめていて。
「君は泣いただろう、あのとき」
違う、と首を横に振る。
「……ユーリ様が、わたくしを、泣かせたのです」
自分でも驚くほど、言い訳じみている。
言いながら、鼻がツンとしてくる。じわりと視界が滲んでいくのが分かる。
情けなくて喉の奥が震えた。
このままじゃいけない、と思う。たぶんまた、愚かしいところを彼に見られてしまう。
「怖くて、泣いたわけじゃ、ない、もの」
「……ブリジット」
だって、だって、
「あなたみたいに、私も強く、なりたいんだもん……っ」
ひぃっ、と、いよいよ喉の奥が甲高い音を立てた。
決壊してしまう。
堪えきれなくなった感情が、堰を切ったように溢れ出した。
ぼろぼろぼろ、と大粒の涙が頬をこぼれ落ちていくのに驚いたらしい。
ユーリがほんの一瞬、手を引いた。
その隙にブリジットは毛布を頭から被り、ベッドの上に丸まった。
分かりやすく逃げ出したのである。
「……ブリジット……」
「……っっ」
さすがに、無理に毛布を引き剥がしたりはできないのだろう。
困ったようにユーリが呼ぶ。でも返事もできなかった。
片手で口を押さえつけて、嗚咽が漏れないよう耐えるのに必死だったからだ。
(ああ、私もう、ほんと馬鹿だわ!)
いったいどれほどの醜態を、彼に見せれば気が済むのか。
ばかばかばか、と精いっぱいに頭の中で自分を罵る。
だけど、そんな弱いところを見せられる相手が、ユーリだけなのも事実で。
――ユーリ・オーレアリス。
何を言われても動じず、怯まず、ただ凛として前を向いている人。
どうしようもなく彼に憧れた。
そんな風に在りたいと強く思った。
だけど毛布の外に置き去りにされたその人は、寄る辺なさげに呟いたのだ。
「……僕は、強くなんてない」
思わずブリジットは呼吸を止める。
顔は見えずとも声は届いていると分かったのか、ユーリは静かに続けた。
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