第49話.思い出していく

 


 それは、行きの馬車でのこと。


 幼いブリジットは、馬車の中で父と向かい合って座っている。

 本当は、外の景色を見たかった。だけどその日は朝から小雨が降っていて、ぬかるんだ道を進むたびに車輪がガタガタと揺れるものだから、身を乗り出して窓の外を見るのは禁止されていた。


 今日、ブリジットは五歳になった。

 五歳になった子どもは神殿での契約の儀に臨み、精霊との契約を結ぶのだ。


 そういうわけでブリジットにとって、この日は誕生日であることよりもずっと特別な日だった。


「私には、どんなせーれーが会いに来てくれるのかな?」


 もう、この一週間ほど何度も言い続けている言葉である。

 父は苦笑し、母も薄く微笑んだ。


 とても寒い日だったが、馬車の中が温かいのは、父が炎魔法を使っているからだ。

 そういう奇跡を、自分も精霊と共に起こしてみせるのだと、ブリジットはこの日を心待ちにしていた。


 火を吐く蜥蜴のサラマンダー? それとも屈強なるイフリートかしら?

 人の顔をしたペリだって見てみたいわ。ジャックランタンだって可愛いでしょうねぇ。


 歌うように軽やかに精霊の名を呼ぶブリジットに、父は満足げだった。


「ブリジット。お前は神童かもしれないな」

「だって私、せーれーはかせになりたいんだもん!」


 ブリジットは胸を弾ませ、そう返す。


 まだ幼いのにとても優秀だ、と父はブリジットをよく褒めてくれる。

 でもさらに精霊の話をしようとすると、忙しいからと書斎に閉じこもってしまうから、ブリジットはそれが少しだけ寂しかった。


 そんな父は自分と同じようにイフリートや、母と同じようにサラマンダーが望ましいと言う。

 でもブリジットは誰でも良いのだ。精霊のお友達ならば、誰だってなんだって嬉しい。


(だけどもしも、『風は笑う』に出てきたあのせーれいだったら……)


 伝説上の存在。

 誰も見たことがないもの。


 本の中にしか現れない空想の産物とされながらも、人間の憧れを集め続ける空舞う精霊――。


 考えるだけで、きゃあっと声を上げそうになるくらい、ブリジットはその精霊のことが好きだ。


「さっき、馬車に乗る前に男の子に会っただろう?」

「うん!」

「帰ったら、彼を交えて大事な話があるからな」

「分かった!」


 ちゃんと話を聞いていないブリジットはにこやかに頷いた。


「あなた。やっぱりまだブリジットには早いんじゃないかしら……」

「先方からも望まれているのだからいいだろう。こちらとしても、優れた血を引き入れる良い機会だからな」


 そのあとに、大好きな父に腕を燃やされることなど知らずに、楽しそうに笑っていた。





「……ブリジット・メイデル伯爵令嬢の契約精霊は、……"名無し"です」



 神官が告げると同時、神殿内が大きくざわつく。

 その中心にぽつんと立たされたブリジットは、驚いていた。


 だが決して、ショックだったわけではない。


 名無し。つまりは微精霊。

 大気中を彷徨う、弱々しい精霊の残り滓とされるそれは、馬鹿にされるほどちっぽけな存在だけれど。


(私は、それでもうれしい)


 だけど父は、それに母はなんて言うだろうか。

 メイデル伯爵家の長子として、最上級精霊との契約を期待されていることを幼心にブリジットは理解していた。


 でも、きっと優しい両親は納得してくれる。

 そう信じながら、ブリジットは恐る恐ると振り返った。


 その瞬間――。

 目の前にした父の表情には、ただ失望と呼ぶべきものだけが宿っていた。



「…………ブリジット。お前は…………」



 父がなんと言ったのか、ブリジットには聞き取れなかった。

 何も言わなかったのかもしれない。どうだろう。


 ひとつだけ分かっていることは、父がブリジットを褒めたわけではないということだ。

 神童だなんて、言ってくれなかったということだ。



 ――その先の記憶は、次第に朧げになっていく。



 馬車が止まるや否や、強すぎる力で腕を引っ張られた。

 小雨が降る中、髪の毛や服が濡れる。この日のための一張羅のドレスが、黒い点で染みていく。


 応接間に入ると、燃える暖炉の中に左腕を突っ込まれて――焼けつくほどの痛みに襲われて、蝕まれる。


 ブリジットは泣いて許しを乞う。

 だが父は許さず、ますます腕を掴む力を強めていく。


 母は助けてくれない。戸惑ったように後ろで呆然としているだけだ。

 使用人たちは数人が駆けつける。だが、止めようとする者を父は力任せに殴りつけた。


 このやくたたず。のうなし。ごくつぶし。むのう。むのう、むのう、むのう。


 父は何度も怒り狂ったように叫んでいる。

 父が難しい言葉を使うたび、ブリジットは辞書を引いた。次のときは分かるようにしていたかったからだ。

 でもその言葉は、辞書の中から見つけたくないと思う。それなのに意味が分かった。分かってしまった。それが何よりも苦しかった。


(私は、おとうさまの、いらない子だったんだ)


 ごめんなさい。ゆるしてください、おとうさま。


 しかし名無しと契約したブリジットを父は許さない。

 火の勢いは激しさを増していく。何人もの悲鳴が上がる。そこにブリジットの泣き叫ぶ声が重なる。


 そのとき。

 ――力なく垂れ下がっていた右手を、誰かが掴んでくれた気がしていた。


 ブリジットと大きさの変わらない、子どもの手だ。


(気のせいだと、思っていた)


 それなのに何回も、何十回も、何百回も繰り返し見る悪夢の中で、その感触は少しずつ鮮明になっていって。

 都合の良い妄想に自分で呆れた。弱さゆえに、現実を歪めようとしているだけの自分が情けなかった。


 でも、



(たぶん私は、――――この手のことを知っている)



 その感触に引き上げられるようにして。

 ブリジットはゆっくりと、目を開けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る