第44話.水の一族1
(どこかしら、ここ……)
熟した林檎のような色合いだった頬が、ようやく元に戻ってきた頃。
ブリジットは見慣れない天井を見上げ、大きな溜め息を吐く。
湖の傍から――ユーリの隣から一目散に離れて、無我夢中のままに屋敷の中に戻ってきたまでは良かったが、混乱している間にすっかり道順が分からなくなっていたのだ。
せっかく毎日、精神集中に励んでいたというのに。
そんなのはまったく無意味に、今日もユーリの前で失態を演じてしまった。
そして、それ以上に胸に重くのし掛かるのは。
(ユーリ様に言えなかったわ……ジョセフ殿下とのこと)
初対面のユーリを相手に、以前のブリジットはなんでも話せていた。
幼少期から今までのこと。
シエンナやカーシン、気の置けない屋敷の使用人たちにさえ、長い間言えなかったこと。
多少、聞き苦しいだろうと曖昧に語った点もあるが、彼は静かに話を聞いてくれた。
彼が馬鹿にしたり、笑ったりしなかったのが、誰からも嗤われ続けたブリジットにとってどれほど嬉しかったことか。
だから未だ誰にも言えずにいる、ジョセフから復縁を求められたという話にも、きっとユーリは真剣に耳を傾けてくれたはずなのだ。
それなのに。――今はそれが
ユーリが、ジョセフの名前を出しても微塵も動揺せず、以前と同じように淡々としているだろう姿を目にするのが、恐ろしくて仕方がない。
(どうかしてる……)
ぎゅっと唇を噛みしめて、項垂れる。
いつのまに、自分はこんなに我が儘になっていたのだろうか。
――なんて考えながら、とぼとぼと歩いていると。
唐突に、臀部のあたりに衝撃があった。
「うぎゃっ!」
つんのめるブリジットだったが、反射的に床に両手をついたので、なんとか倒れずに済む。
慌てて後ろを振り返ると、そこに立っていたのは、何やら険しい顔をした子どもである。
どうやらこの子が、ブリジットを突き飛ばしたらしい。
わざわざお尻を触ってきたのは、たぶん身長が低くて背中に届かなかったからだ。
(ユーリ様に似てる)
一目見てそう思うのは、その可憐な容姿の子が目が覚めるような青髪と青目をしているからか。
瞳の色は異なるものの、目の前に幼い頃のユーリが立っているように錯覚して、ちょっぴり落ち着かない気分になってくる。
しかしオーレアリス家は四人兄弟で、ユーリが末っ子のはずなので彼の兄弟ではないはずだ。
クリフォードのように、オーレアリス家と縁がある家の子だろうか。
(……男の子? 女の子にも見えるけど……)
個人的な好奇心と興味によってまじまじと観察したい気分だったが、今はそれどころではない。
とりあえず立ち上がったブリジットは、優雅にスカートの裾をつまむと淑女の礼を取った。
「ごきげんよう。わたくしは、ブリジット・メイデルと申しまーー」
「知ってる」
不機嫌な声に遮られ、ブリジットは口の動きを止める。
「ボクはな。おまえに言いたいことがあるんだ」
「……な、なんでしょう?」
どうしてこんなに敵意むき出しなのか、とドキドキしつつ問うと。
目の前の子どもがくわっと目と口をかっ開いた。
「おまえ――今日、おうちデートに誘われたと勘違いしてただろ!?」
ギクッ!
思わずブリジットは身体を強張らせる。
なぜかというと、その指摘が図星だったので。
冷や汗をかきながらブリジットは、なんとか愛想笑いを浮かべてみせた。
「そ、それはその……勘違いはしましたけど、別にいいでしょう」
「良くないね。というか、そんな浮ついたことばっかり考えてるから精霊に応えてもらえないんじゃないの?」
「な――」
あまりにもあまりな言い様に、ブリジットの頭の中が一瞬真っ白になる。
今まで散々、馬鹿にされてきたことだ。
でも、どうして初対面の子どもにまでそんなことを言われなければならないのか。
そんな不満が顔に出ていたのか、その子はフンッと鼻を鳴らすと。
「このビッチ女!」
……一瞬、ブリジットは何を言われたのか分からなかった。
というか、あまりに低俗な物言いを前に脳が理解を拒否していたのである。
「――び。……び、びびッッ……!?」
なんて言葉を持ち出してくるのか。
というかオーレアリス家、子どもにどういう教育をしているのか!
怒りと羞恥のあまり赤くなりながら、ブリジットは必死に言い返す。
「わ、わたくしは別に、誰にでもほいほいついていくわけじゃありませんわよっ! 今回だってたまたま、その、気が向いたし暇だったからユーリ様のお誘いにお答えしただけでっ!!」
「つまりビッチだ。誘われてほいほいついてきてる」
「~~~っ!」
(ユーリ様に似て、口が悪い!!)
いや。これはもはや、部分的にユーリを超えているのではないか?
(今ならわたくし、頭で湯を沸かせるかも……)
そんなことを考えてブリジットがふらついていると。
傾きかけた両肩を、大きな手が後ろから支えた。
「大丈夫?」
聞きなれたその声に、思わずブリジットは安堵の息を吐く。
混乱したまま飛び出してきてしまったが、追いかけてきてくれたらしい。
「ありがとうございます、ユーリ様――」
僅かに微笑みながら振り向いたブリジットは、しかしそのまま変な角度で固まる。
見上げた先に――まったく知らない青年が立っていたからだ。
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