第二部
第42話.オーレアリス家へ
車輪の音をガラガラと鳴らして進む、馬車の中。
伯爵令嬢ブリジット・メイデルと、その専属侍女であるシエンナが向かい合って座っていた。
先週から、オトレイアナ魔法学院は一ヶ月の夏期休暇に入った。
ニバルやキーラにも声を掛けられ、休みの間も一度は会おうと話している。
ブリジットにとっては珍しく、外出機会の多い休みになりそうだ。
しかし本日、ブリジットが向かっているのは――オーレアリス家である。
そう。ユーリの実家……由緒正しき"水の一族"のお屋敷だ。
(なんでこんなことになったのかしら……)
ブリジットはユーリとの勝負に僅差で敗北し、"負けたほうは勝ったほうの言うことをなんでもひとつ聞く"というルールに基づき、彼の家へと招待された。
しかしどうしてそんなことになったのか。ユーリには何か事情があるようだったが、今のところそれは不明である。彼の家に辿り着けば明らかになるだろうが。
(お、落ち着いて私。深呼吸よ、深呼吸……)
考え出すと緊張のあまり、服の下の心臓が口元から飛び出しそうになる。
ここ最近は日課になりつつある精神集中に励みながら、ブリジットは思い出す。
今回のことは、あとから何か言われたら堪ったものではないので、別邸付きの執事から両親に報告してもらった。オーレアリス家の子息より友人としてお屋敷に招かれた、とだけ。
何か言われるかと憂鬱だったが、告げられた伝言は「粗相がないように」という温度のないものだけだった。
やはりブリジットには欠片も興味のないままなのだろう。
学年三十位だった筆記試験の結果や、魔石獲りの実技試験で二位だったことなど、両親にとっては取るに足らないことである。
そもそも、ブリジットには名のある精霊がついていない。
それだけで、彼らにとってはただ無価値な存在なのだ。
両親の反応は分かりきっていることだから、別にいい。今さら、何を期待することもない。
(それよりも……)
気掛かりなことは他にあった。
『――もう一度、婚約しよう。俺とやり直さないか、ブリジット』
久々に目の前にしたジョセフが言い放った言葉。
あの日以降、何度も胸に甦るその数秒間を、ブリジットは苦虫を噛み潰すような顔で思い起こす。
何度考えても、わけが分からなかった。
彼はリサの言い分だけを信じると断言し、長年の婚約者だったブリジットを手酷く捨てた男だ。
それなのに今になって、どうしてあんなことを言い出したのだろうか。
それに彼には、リサのことで訊きたいこともあったのだ。
だがブリジットが驚きのあまり硬直している間に、ジョセフは『返事はまた今度でいいから』と微笑み、待たせていた馬車に乗り込んでしまったのだ。
あれからすぐに夏期休暇に入ってしまったから、彼の真意は確かめられずにいる。
心には大きな戸惑いがあって、それが変な足枷のようになっている気がする。
以前は唯一、心を開いていた相手であったはずのジョセフに対して、自分が何を考えているのかもよく分からなかった。
「ブリジットお嬢様。緊張なさっています?」
「……そっ、そんなことはないわ。わたくしはいつも通りよ」
様子がおかしいのが、シエンナにはあっさりと看破されているらしい。
本当なら、誰かに相談したかったが――別邸の使用人たちは、みんながジョセフのことを大いに恨んでいるような状態だ。そこに火種を投下するような真似はできないし、余計な心配は掛けたくない。
そんな思いが、ブリジットを頑なにしていた。
「それにしても、本日のお嬢様も本当にお可愛らしいです」
真顔でそう言われ、ブリジットは少々照れくさくなる。
淡く施された化粧。
それに明るいオレンジ色の、半袖のワンピースドレス。
裾がふわりと広がる優雅なシルエットを彩るのは、一本の三つ編みに結んだ赤い髪の毛だ。
公爵家に招待されたこともあり、もっと堅苦しい格好のほうが好まれるのではと思ったのだが、シエンナが激しく推奨するので本日のブリジットはこんな装いである。
「……シエンナ。念のために言っておくけど、ユーリ様に服の感想とか聞くのはもう禁止よ」
「……では全体的な感想なら」
「全面的に感想聞くの禁止!」
ブリジットが大声を出すと、さすがにシエンナは「はい」と頷いた。不本意そうだったが。
(立派な門構え……)
十数分を馬車に揺られ、王都の郊外に到着すると。
目の前に聳え立つのは、それはもう立派なお屋敷だった。
メイデル伯爵家もそれなりではあるが、筆頭公爵家であるオーレアリス家はやはり格が違う。
白を基調とした外壁に囲まれたその屋敷には、白と青の二つの色が用いられている。
屋敷に続く一本道は、青々とした木々や清らかな水の流れる小川に彩られ、夢のように美しい。
しかも驚いたのが、遠目に湖畔が見えることだ。
(さすが名高き"水の一族"。ちょっとスケールが大きすぎるけど……!)
馬車の窓から顔を出し、感心しつつ景色を楽しんでいると……やがて御者が馬を止めた。
「よく来たな、ブリジット。シエンナ嬢」
馬車から下りたところで、ブリジットは目を点にした。
まさか出迎えに、ユーリ本人が来てくれるとは思っていなかったのだ。
ブリジットの緊張はその時点で限界を超えた。
「お、お招きいただき、光栄です……」
しかもモニョモニョと口を動かしていたら、私服の彼に片手を差し出されてしまう。
ブリジットはおっかなびっくり、その手を掴んだ。
さすがに公爵家の令息なだけあり、ユーリは女性のエスコートに慣れていた。
(他の女性の手も、こうして引いたことがあるのかしら……)
そう思うと、少しだけ気分が落ち込む。
その様子を見守っていたユーリの従者であるクリフォードが、笑顔で言う。
「ブリジット嬢。我が主は女性のエスコートに不慣れでして、本日は付け焼き刃での披露となりましたが
「――クリフォード、余計なことを言うな」
ユーリが舌打ちする。
「これは失礼」とクリフォードが、まったくそう思っていなさそうな笑顔で引き下がる。
しかしブリジットは耳寄りな情報を聞き、ちょっと嬉しくなってしまった。
それはつまり、ユーリがブリジットのために時間を使い、エスコートの練習をしてくれたということだ。
口元がふにゃりと緩んでいるブリジットは、その様をシエンナとクリフォードが生温かい目で見守っていることには気づかずユーリに話しかけた。
「そ、それでユーリ様。本日はどのようなご用件でしょうっ?」
「ああ。そのことだが……僕の精霊が、ブリジットと話したいと言っていてな」
ブリジットは目をぱちくりとした。
「精霊……ウンディーネですか?」
いや、とユーリが首を振る。
それから彼は、なぜだか言いにくそうに口にした。
「もう一体のほうだ」
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