第41話.信じられない言葉

 


 ――――幻聴。



 頭の中にそんな一言が浮かぶ。


(いやだわ、私ったら……疲れてるのかしら)


「ごめんなさい、ユーリ様。なにやら幻聴が聞こえてしまって」

「――だから、僕の家に来てくれないか」


 おかしい。まだ耳の調子が良くないようだ。

 ブリジットは首を捻りながら、もう一度聞き返した。


「え?」

「僕の家に来てくれないか」

「え?」

「……僕の家に来てくれないか」

「え?」

「僕の…………嫌なら、無理にとは」


 ユーリが目線を逸らす。

 それでようやくブリジットは、本当に「僕の家に来てくれ」と言われていたらしいと思い当たった。


「ちっ、違うのです! だって聞き間違いかと思いまして!」


 必死に弁解するブリジットだが、ユーリもとんでもないことを言い出した自覚はあるのか、どこか気まずげだ。

 別に、恋人同士であるとか、婚約者同士であるとか、そういう間柄であれば何もおかしい話ではない。

 だが今回の場合――勝負に勝った男性が、一種の命令として「自分の家に来い」と負けた女性に言ったわけで。


 そうなると些か、というかかなり、意味合いは変わってくる気がする。


(は、はしたないことを考えちゃダメよ私!)


 ブンブンブン! と頭を振って、ブリジットは妄想を打ち払う。


 それにそうだ。相手は水の一族の令息、ユーリ・オーレアリスなのである。

 とてもじゃないが、色気のある理由で呼ばれるとは思えないし……そもそもユーリは相手の女性に困らない身分だ。


「いや、……引かれるのは分かっている。家に呼ぶ理由も、今はうまく説明できないんだが」


(そ、そうよね。何か理由が――重大な理由があるのよ、私はちゃんと分かってるから!)


 努めて平静を装いつつ、しかし口元はパタパタと扇で隠しながら、ブリジットは頷いてみせた。


「……う、伺いますわ」

「そうか。助かる」

「…………」

「…………」


 変な空気が場に流れる。

 この場に留まると余計なことを口走りそうだったので、ブリジットはぎこちなく立ち上がった。


「帰るのか?」

「え、ええはいあの、はい帰りますわええ」


(混乱してまともに口が……!)


 ふらふらするブリジットを見送って、ユーリが「そういえば」と口を開く。

 なんだろうと見下ろすと、彼はその眼光鋭い瞳でブリジットを見ていて。


「二位おめでとう、ブリジット」

「――あ、ありがとうございます」


 頭を下げて、ブリジットは四阿を出た。

 急ぎ足で道を進みながらも、口の端は耐えられずに上がっていき、そして最終的に、



「…………えへへ」



 へにゃ、とだらしなく緩まる頬を押さえる。


 自分でも単純だと思うのだが、ユーリに褒めてもらえるだけで嬉しくて仕方がない。

 結果は二位だし、ユーリには及ばなかったのだが――それでも、彼が認めてくれていることが嬉しいのだ。


(ユーリ様と居ると、いつも楽しい)


 とびきり口が悪いくせに、優しい人。

 あとから思い出すと、頭を抱えたくなることとか、恥ずかしくて身悶えたくなることもあるのだが。

 彼と過ごす時間は、ブリジットにとって何より特別で。


 ……きっとこれは、幸せと呼んでいい感情なのだろう。

 まだ取り扱いに困るくらいに、落ち着かないけれど。


(お家にお伺いするんだったら、何か手土産も用意しないと……シエンナに案を訊いてみようかしら)


 先ほどは動揺してしまったが、水の一族と名高いオーレアリス家にお邪魔するのだ。

 運が良ければ、他の水精霊や氷精霊を目にする機会もあるかもしれない。そう思うと胸が弾む。


 そうして、人目がなければきっとスキップしていただろう足取りで、馬車の停車場へとやって来たブリジットは。

 その石畳の道で――背の高い少年が、待ち構えるよう佇んでいたのにようやく気がついた。


(え……?)


 立ち止まり、静かに目を見開くブリジットに。

 その少年が気づき、ゆっくりと振り返る。


 髪と瞳に金色を宿した人。

 フィーリド王国の第三王子であり――ブリジットの元婚約者である、彼が。


「…………ジョセフ……殿下?」


 数十日ぶりに近くから見つめ合った眼差しに、ブリジットは動けなくなった。


 そして、あのとき冷たく婚約破棄を告げた唇が。

 目の前でゆっくりと、柔らかな弧を描いていた。




「もう一度、婚約しよう。俺とやり直さないか、ブリジット」



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