第38話.信じてくれる人
リサがそう言い、マジョリーに駆け寄った瞬間に。
シン、と辺りが静まりかえり……そのあとに、大きなざわめきが走った。
「メイデル伯爵令嬢が、セルミン嬢の手を?」
「信じられないわ……そんな暴力的な真似をするなんて」
「でも確か"赤い妖精"は、改心した振る舞いを見せていたんじゃ」
木立が揺れるかのように一斉に騒ぎ出す話し声。
マジョリーの腕の中ではリサが震えている。だがその口角が上がっているのが、ブリジットには見て取れた。
「静かに。静かになさい、あなたたち」
どんなにマジョリーが注意しても、生徒たちは誰も聞かない。
騒がしいのに気がついたのか、森の中に散らばっていた生徒たちも次第に集まりつつあり……その目線の多くは不躾にブリジットへと向けられた。
ぬかるんだ道に座り込んだブリジットは、そんな現状を、どこか他人事のように眺めていた。
(……ああ、いつもと同じだわ)
ジョセフから一方的な婚約破棄を告げられて――あの日を境に変わろうと思ったのに。
傲慢な女から、ちょっとだけ素直な女の子に。
趣味の悪い洋服は、もう少しだけ好みの格好に。
目の前の問題にも真っ向から向き合って。
厚いだけの化粧を剥ぎ取って、いつか笑ってみたいと。
(魔石獲りだって、全力で頑張ってたのに)
それなのに、今、ブリジットはこうしていつものように後ろ指を指されている。
その事実に打ちのめされて、声を上げることも、立ち上がることもできずにいる。
(結局、私は――)
「ブリジット」
そのときだった。
ふと、至近距離から声を掛けられる。
恐る恐ると顔を上げたブリジットは……そこに、もうとっくに去っただろうと思っていた人の姿を見て、目を見開いた。
「ユーリ様……」
どうしてか。
いつも冷静沈着な彼の表情が、少しだけ軋んだように見える。
「ブリジット。俯いているのはやめろ」
そう言い放つ声も、一段と低くて。
彼は怒っているのだろう。勝負事の最中に、いったいお前は何をしているのかと。
ますます恐ろしくなって、ブリジットはさらに深く俯いた。
他の誰から軽蔑の目を向けられようと、慣れたものだ。
だがユーリが――彼がそんな目でこちらを見たらと、考えるだけで息が苦しくなって。
(泣いちゃ駄目、なのに……)
小さく鼻を鳴らすブリジットの肩を、苛立ったようにユーリが揺さぶる。
「おいブリジット。聞いているのか?」
「…………」
「お前は何もしてないんだろう? なら、堂々としていればいい」
(え?)
信じられない言葉が聞こえた気がして。
弾かれたように顔を上げると、ユーリはまっすぐにブリジットを見つめていた。
強い意志の灯った瞳には、嘘偽りの色など何一つなくて。
「僕も、この二人も、最初からお前を疑ったりしてない」
恐る恐ると、ブリジットはユーリの背後へと目をやった。
「この二人って……」
「ユーリお前、明らかに俺たちの名前覚えてないだろ……」
そこにはしょんぼり顔のキーラと、あきれ顔のニバルの姿がある。
(あ……)
ようやくブリジットは気がつく。
この暗闇の中で、何も見えていなかった。
周りが全員、自分のことを憎々しげに見ているのだと決めつけていた。
だが、よくよく見回せば、同じクラスの生徒たちは、ほとんどが不安そうにこちらを見守っている。
本当は当たり前のように、ブリジットのことを思ってくれている人が居たのだ。
そしてユーリが、見間違いかと思うほどほんの小さく笑った。
どこか皮肉なその笑みは、ユーリらしくて。
「――分かるか? お前を信じている、と言っているんだが」
「…………っ!」
視界が涙で歪みそうになって。
慌ててブリジットは目をごしごしと力任せに拭う。
泣いている場合ではない。ブリジットには、やらなければならないことがある。
「立てるか?」
「はい。平気、ですわ」
ユーリの腕を借りずに、ブリジットはゆっくりと立ち上がった。
少し身体がふらつく。だが、数分前よりずっと平気だ。
(……落ち着いて。息を吸って、吐いて。大丈夫……)
「マジョリー先生」
声はなんとか震えずに済んだ。
リサに縋りつかれすっかり困惑しているマジョリーがブリジットを見つめる。
「マジョリー先生。わたくしは、セルミン男爵令嬢を傷つけたりしていません」
堂々とブリジットが言うと、再び生徒たちの間には動揺が走った。
さらに続けてキーラが前に出る。
「わっ、わたしも証言します。リサちゃ……リサ様が、洞窟で休んでいたわたしとブリジット様のところに、松明を持って突然現れたんです。リサ様の様子がおかしいから、急いで助けを呼んできてほしいと、ブリジット様はわたしに仰ったんです!」
人前に立つのも恐ろしいのだろう、キーラの足はがくがくと震えていたし、声も裏返っていたが……それでもブリジットのために、必死にその場に留まってくれている。
リサは、憎しみの篭もった目でブリジットとキーラを睨みつけた。
「騙されないでください! その二人は嘘を吐いています!」
立て続けに彼女は叫んだ。
「マジョリー先生、あたしはジョセフ様との仲を嫉妬されて、ずっとブリジットに虐められていました! 彼女はまた、あたしを陥れようとしているんです!」
食い違う両者の言い分に、ますます周囲の話し声は大きくなっていくが、マジョリーは判断に悩んでいるようだった。
教師の立場としては、どちらか一方を信じる――とは迂闊に言えない場面だろう。
(何か、証拠があれば……)
ブリジットは必死に考えを巡らせる。
炎魔法を防ぎ、一部分が壊れただろう髪飾りはどうか……と思うが、しかしそれも決定打にはならないだろう。
そもそもブリジット自身が、系統さえ不明の微精霊と契約したとは言え炎の一族の出身なのだ。
自分で髪飾りを壊したのではないかと反論されれば、どうしようもない。
膠着する場をさらりと撫でるように、頭上から声が降ってきたのはそのときだった。
『ねぇ。それ、良かったらワタシが解決してもいいわよ』
聞き覚えのある柔らかな女性の声に、ブリジットが驚いて見上げると。
(ウンディーネっ?)
ふよふよと、空を漂うように舞い降りてきたのはユーリの契約精霊――ウンディーネで。
「えっ、本物……!?」
「すごい。綺麗な精霊……」
美しい最上級精霊が唐突に出現したために、周囲には一気に興奮の声が広がっている。
というのも、数え尽くせないほど存在する精霊の中で、最上級の位置にある彼女らは一般的にはほとんど目にする機会がないからだ。
しかしその中で、ひとりだけ渋面で溜め息を吐いたのがユーリだった。
「どこに行ったのかと思ったら……」
『ごめんなさいねマスター。ここの小川は気持ちが良いのよ』
うふ、と魅惑的な微笑を浮かべるウンディーネ。
それだけで何人かの生徒が、薄闇の中でも分かるほどに顔を赤らめている。
(そういえば……)
学院は周囲を森に囲まれており、その森に沿うようにして小川が流れている。
以前もユーリはその小川でウンディーネを遊ばせていたが、今思えばあれは精霊自身の希望だったのだろう。
「……ウンディーネ。それで、今出てきたのはそういうことか?」
『そういうことよ。さすがマスター、察しが良いんだから』
そんなやり取りのあとに、ウンディーネはのんびりと――だがよく通る声で言い放った。
『お集まりの皆々様、ワタシの水鏡のことはご存じかしら?』
その一言だけで、ブリジットはすぐに思い当たった。
(まさか……)
水鏡は、ウンディーネが持つ特殊な能力のひとつだ。
自身が目にしたものを、水面の上に呼び起こして再現する力。
『ウンディーネの水鏡』というタイトルの物語では、その優れた能力で夫となった人間の不倫を暴いたために、ウンディーネが殺されるという悲劇の結末が描かれた。
あまりにも有名な話なので、水鏡のことを知らない人間はこの場に居ないだろう。
だから、その言葉の真の意味が浸透していくにつれ、周囲には戸惑ったようなざわめきが広がっていく。
そんな大衆をのんびりと眺めながら。
にっこり――と、頬に手を当ててウンディーネが微笑む。
ブリジットには女神の微笑のように思えたが、青を通り越して白い顔をしたリサには、きっと悪魔のそれに見えたことだろう。
『そちらの女の子が、自分の手に松明を押しつける瞬間なら、よぅく見てたから――うふ。ワタシの水鏡に映しちゃいましょうか?』
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