第37話.炎の波
後ろから足音と、揺らめく炎が追ってくる。
ブリジットは何度か後ろを振り返りながら、森の中を走っていた。
「っはぁ……」
狭い洞窟から逃げ出したまでは良かった。
だが意外にもリサの走る速度は速く、後ろとの距離が開かない。
――否、実際はブリジットが思うように動けていない。
そのせいでリサをなかなか突き放すことができないのだ。
(炎が……)
別邸の使用人は全員が事情を理解し、ブリジットを火から遠ざけてくれていた。
ブリジット自身も、厨房や焼却炉など、火を扱う場所に自分から近づいたことは一度もない。
学院生活でもそうだ。
街中や学院で炎精霊を見かけたときも、魔法を行使する瞬間は決して目にしないよう注意深く過ごしてきた。
だから今――。
後ろから迫る炎は、ブリジットの視界には大きな波のように見える。
それは時折、父親の腕のように伸びては、たちまちブリジットの身体を蹂躙しようとする。
「…………っ」
ぐっと歯を食いしばり、ブリジットは必死に足を動かす。
ぬかるんだ土を踏むたびに、足元に泥が跳ねる。
体力は次第に奪われていく。それでも、立ち止まってはリサに何をされたものか分からない。
だが、認識はそれでも甘かったらしい。
リサはいつまでも追いつけないことに苛立ったのか。
後方から投げられた松明が――ブリジットの頭上に、降ってきたからだ。
「え――――、」
その瞬間、ブリジットは動けなかった。
目がけて落ちてくる、狂ったように燃え盛る炎をただ見つめて……息もできず、避けられずに、
――バシンッ!! と鋭い音が鳴った。
気がつけば松明は大きく弾かれ、立ち止まったリサの足元へと落ちていた。
それを目にして、ようやくブリジットは思い出す。
入り込んだ汗で濁った視界で尚、輝くような美貌の人のことを。
(ユーリ様の……)
結った髪の毛を後頭部で留めている髪飾り。
それはあらゆる系統魔法を、一度は跳ね返すとされる最高級のマジックアイテムだ。
きっと今、髪飾りについた九つの魔石の内、炎の魔石はその輝きを失ったことだろう。
リサからの攻撃を防いで、その役目を果たしたから。
となると、もしかして彼は、こうなることを見越して――ブリジットに髪飾りを贈ってくれたのだろうか。
(ユーリ様が、守ってくれたみたい……)
心強さに僅かに安堵を覚えると同時、ブリジットは気がつく。
つまりリサの手にしていた松明の炎は、彼女自身が熾したものではなく、炎魔法で付与したものだったということになる。
だが、それはおかしい。
(だってセルミン男爵令嬢の使う系統魔法は、確か――)
「――――なんでなのよっ!!」
しかし思考はやむなく中断される。
夜の闇を切り裂くように、リサが叫んだからだ。
「あ、アンタっ、名無しと契約してるんでしょ……っ!? なのにこんなのおかしいじゃない、あり得ないじゃないっ!!」
どうやら攻撃を弾いたのは、ブリジットの契約精霊の仕業だと思い込んだらしい。
喚き立てるリサを相手に、何か言おうとして――しかしブリジットは口を噤んだ。
(マジックアイテムのおかげです、なんて素直に明かしたら、間違いなくもう一度攻撃されるわ……)
魔石獲りでは他の生徒への攻撃が禁止されているにも関わらず、あっさりとその決まりを破ったリサだ。
しかもその足元の松明は、未だに小さくなった炎を揺らめかせている。この場でわざわざ種明かしをする意味はなかった。
だが黙ったままのブリジットに、ますます苛立ちが募ったのか。
「なんでよっ! アンタは落ちこぼれで、馬鹿で間抜けで、みんなから嫌われてるはずで……っ! それなのにどうしてなのっ!? ねえっ!!」
「セルミン男爵令嬢、」
「うるさいっ!」
興奮したリサが、落ちていた松明を掴む。
ブリジットは咄嗟に身構えたが、リサがその先端を向けたのはブリジットではなかった。
リサは自分自身の左手の甲に、無造作に松明を当てたのだ。
「何を……」
押しつけた、というほどでもない。
ほんの一瞬、炎が傷一つない皮膚を無造作に舐める。
リサはすぐに松明を離し、手から取りこぼした。
「あ、あははっ。い、痛い……」
悶えたリサの瞳から大粒の涙がぼたぼたとこぼれ落ち、鼻水が滝のように流れ出した。
その顔を見て――思わず、ブリジットはその場にくずおれた。
――痛いです。熱いです。やめてください。
――お願いします、お願いします、許してくださいお父さま……。
遠い記憶が、途端に息を吹き返したように。
どっと冷や汗が噴き出て、全身が凍りつく。
泣きながらケラケラと笑うリサの姿に、泣き叫ぶ幼い日の自分が重なる。
「何をしているの!」
そこに駆けつけてきたのは数人の生徒と、マジョリー・ナハだった。
何匹ものコロポックルを操るマジョリーだ、おそらく試験の監視役を務めているだろうとは思っていたが、推測通りだったらしい。
そしてマジョリーの後に走ってきたのは、キーラとニバル、それにユーリで……。
ブリジットのために助けを呼んできてくれたのだろう。キーラは肩で息をしながら、心配そうにこちらを見ている。
それなのにブリジットは、何も言えなかった。
そうして手の表皮を焼いたリサと、泥道の中に呆然と座り込むブリジットを見比べて。
マジョリーは困惑と険しさを含んだ表情で言う。
「これはどういうことですか。ブリジットさん、リサさん」
(……どうしたらいいの。声が出ない)
いくらだって、弁解したいことはある。
だが、何度口を開こうとしても、恐怖のあまりか――身体がぴくりとも動かなくて。
「……ブリジットさん?」
キーラから事情は聞いていたのか。
マジョリーは、ブリジットのことを気遣うように見つめてくれていたが、それをリサが遮った。
「マジョリー先生」
「……ええ。何か言いたいことはある? リサさん」
はい、と小さく頷いて。
リサは恐ろしい無表情のまま、言い放った。
突き出すように、その左手を掲げて。
「ブリジット・メイデル伯爵令嬢が、あたしの腕を焼きました」
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