第36話.迫る魔の手

 


 夕方になると、ようやく雨が上がった。

 ブリジットはそれだけで、知らず詰めていた息を吐き出した。


(雨の日は、やっぱり嫌……)


 まざまざと胸に甦るあの日の記憶。

 未だ心を苛む、消えない過去の日の残像をどうにか打ち消し、ブリジットは外の景色を確かめた。


 空は既に暗く、森の中はほとんど見通しが立たない。

 慣れない環境で魔石探しを再開するのも危険に思え、キーラを振り返る。


 洞窟内に、彼女の契約精霊であるブラウニーの姿はない。

 精霊が人界に顕現するには、大量の魔力を消費する。精霊界に戻り、しばらくは回復に専念するつもりなのだろう。

 そのためか、契約者であるキーラも少々疲れた様子を見せており……というより実際に試験での疲労が濃いのだろう、先ほどから口数も少なくなってきている。


「今日はこのまま野営しましょうか」

「そ、そうですね。それなら、火を熾したほうがいいでしょうか」


 ブリジットは首を横に振った。


「……大丈夫じゃないかしら。食料と水の用意はあるし」


 分かりました、とキーラが真剣に頷く。

 そんな彼女に、ひとつ言い忘れたことがあったのをブリジットは思い出した。


 リュックサックから携帯糧食を取り出しながら、のんびりと話しかける。


「そういえばキーラさん。あなた、前髪は上げたほうがいいかもね」

「え?」

「すごくきれいな瞳だもの」

「……っ!」


 率直な意見だったが、キーラは驚いたように息を呑んだ。


「…………そう、でしょうか?」

「ええ。わたくしはそう思ったのだけど」

「……ありがとうございます、ブリジット様」


 キーラの反応はどこかぎこちない。

 何か悪いことを言ってしまっただろうか、とブリジットは顔を上げて――そこで、異変に気がついた。


 洞窟の入り口に見える揺らめき。

 ブリジットとキーラの姿を覆うように伸びた影が、蠢いて……驚いて振り返ったブリジットは、思わず息を止める。


(セルミン男爵令嬢……?)


 燃える松明を手に、入り口に立っているのはリサだった。

 雨に濡れたためか、髪の毛から、服から大量の水滴が滴っている。


 深く俯いているので、リサの表情は窺えない。

 だが、いつもと違う様子なのは明らかで。


「リサちゃん……?」


 不安そうに、キーラも彼女の名前を呼ぶ。

 リサの口元が、小さく動き続けているのにブリジットは気がついた。


「全部、アンタの所為よ……そうよ、アンタの……」


 リサは何やらブツブツと呟いている。

 だが、その声は狭い洞窟内に反響してうまく聞き取れない。


「……キーラさん。わたくしが彼女の注意を引きつけるから、その隙に人を呼んできてくれる?」

「え? で、でもっ……」

「……なんだか様子がおかしいわ。誰か助けを呼んできてもらえると本当にありがたいのだけど」


 キーラは躊躇いながらも、ブリジットの言葉に頷く。

 それを合図に、ブリジットはリサに声を投げ掛けた。


 興奮させないよう、なるべく平静な口調で。


「セルミン男爵令嬢。わたくしに何か用かしら?」

「っ」


 反応は劇的だった。


「ブリジット……っブリジット・メイデルッ!!」


 ブリジットとキーラは、同時に凍りつく。


 リサの表情はそれほどまでに凄まじかった。

 血走った目は大きく見開かれ、唇は何度も噛んだためか血が滲んでいる。

 普段はよく整えられていた髪の毛は額や頬にべったりと張りついていた。


(いったい、何があったの……?)


 今まで何度も、リサの敵意を感じてきた。

 だがこれほどまでに明確な殺意を向けられるとは思っていなかったのだ。


 気圧されながらもブリジットは、キーラの背をそっと押した。

 はっとしたキーラが、リサの横をすり抜ける。


「……っお気をつけて、ブリジット様!」


 最後にそう叫び、キーラは夜闇の中に消えていった。


 取り残されたブリジットは、なるべく無表情を装ってひとりリサと相対するが――


「……ねえ、なんで?」


 ぽつり、と呟かれた、独り言のような言葉に眉を寄せた。


「なんでニバル様も、キーラまで、いつの間にアンタの奴隷になってるの?」


 どう答えたものか悩みつつ、口を開く。


「奴隷じゃないわ。ニバル級長やキーラさんは、わたくしのお友達よ」


(と、私は勝手に思ってるんだけど……)


 なんて不安げな心の声までは聞こえなかっただろうが、リサが鋭く叫ぶ。

 手にした松明を振りかざすように動かしながら。


「"赤い妖精"に友達なんてできるわけないじゃない!」


 ブリジットは思わず後退る。

 ゆらゆらと不穏に、洞窟内の影が揺れる。


 大きな巨人は、まるでブリジット自身を呑み込もうとするかのようで――



「――ああ、分かっちゃった」



 ――そうリサが、低い声で囁いた途端に。

 ブリジットの背筋の毛がぞわりと逆立った。


「ブリジット。アンタ、火が苦手なんじゃないの?」

「……っ」


 ブリジットの身体が強張る。

 その緊張と恐怖を、リサは読み取ってしまったようだった。


「そっか! そりゃそうよねぇ。だって実の父親に腕を焼かれたんだものねぇ!」


 ケラケラとリサが笑い出す。


「あっはは、おっかしい! 可哀想! あなたって本当に哀れで不様よね、ブリジット!」


 知らず、手袋を嵌めた左腕を右手で庇うように抑えつけて。

 ブリジットは冷たい汗を流しながら、それでも気丈に笑ってみせた。


「……そうね。あなたの言う通りよ、セルミン男爵令嬢」

「……は?」


 素直に認めるとは思わなかったのか。

 リサが剣呑に、目を眇める。そんな彼女と真っ正面から向き合って、ブリジットは口角を吊り上げた。


 声が震えそうになる。

 ともすれば涙だって零れそうだ。


 だけど、こんな風に、人を小馬鹿にするためだけにナイフのような言葉を使う少女を相手に。


(負けたくない……)


 その一心で、口を開く。


「炎の一族の娘が、炎を苦手にしているなんて……ええ、良い笑い話だわ。だから、いくらでも笑ってもらって構わないのよ」

「……何それ。強がりのつもり?」

「いいえ、本心よ。だってあなたの言う通り、笑える話じゃない?」


 だから、笑ってもらって構わないと。

 そう言ってのけるブリジットに、少なからずリサは衝撃を覚えた様子だった。


 だが、瞳に浮かぶ殺意はますます増すばかりで。


「そうだわ、っふふ、あたし良いこと思いついちゃった……」


 澱んだ笑みを浮かべて、妙に嬉しげにリサが言う。

 松明の炎を、剣のように掲げて。



「ねぇ、"赤い妖精"さん。この炎でもう一度、あなたの腕を焼いてみたらどうかしら?」



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