第24話.絶対零度の怒り

 


 "赤い妖精"。

 悪しきその名でブリジットを呼んだリサが、立て続けに言う。


「ジョセフ様に捨てられた、なんの取り柄もない惨めな女が、彼に愛されているあたしに偉そうに話し掛けないでッ!」


 その場の空気が一瞬で凍りつく。

 ブリジットは黙って、そんなリサを見つめた。


(言葉だと、たぶん彼女には理解してもらえないかも……)


 それでも、このまま好き勝手に喋らせておくわけにはいかない。

 ブリジットの名誉のためというより――リサ自身のためにも。


「セルミン男爵令嬢、わたくしは」

「――あなた、お父上に取替え子チェンジリングって言われたんでしょう?」


 しかし。

 その言葉に、ブリジットの唇の動きは中途半端に止まってしまった。


 勝ち誇ったようにリサがニヤリと口端を吊り上げる。


「だから知能が低いのかしら? それに翠玉エメラルドの目もギラギラ光って、気味の悪い魔物のようだわ!」


(……やめて)


 うまく声が出ない。


(父の話は、やめて……)


 知らず、身体に震えが走る。

 心臓が早鐘を打つ。未だ醜い火傷跡の残る左腕を、右腕で庇うように掴んでも、うるさいままで。



『少しは期待に応えてみせろ、この無能!』



 幼いブリジットを責め立てる父の声。

 契約の儀から帰るなり、応接間に連れて行かれ、燃え盛る暖炉へと腕を突っ込まれた。


 覚えているのは肉の焼け焦げる音。感触。

 滂沱と流れる汗と鼻水と、全身が狂おしいほどに熱くて、もがき苦しんで泣き喚いた。


 ――お願い、やめて、と。


 痛いです、熱いです、許してください、許してくださいお父さま、ごめんなさい、駄目な子でごめんなさい、お父さま、お父さま、お父さま…………と、何度も何度も許しを乞うた。


 しかし父はブリジットの手を離さなかった。

 そして最後に、温度もなく吐き捨てたのだ。



『"コレ"は、俺の子どもじゃない』



(苦しい…………)


 未だに何か調子づいて叫んでいるリサの顔を、ブリジットはぼんやりと眺めるが、うまく彼女の声は聞き取れない。

 夢の中に漂っているかのようだ。ただし幸福な夢ではない。

 そうしてブリジットは、茫然自失としながらも、今さらに不思議に思った。


 あのときは、疑問に思う余裕すらなかったけれど。



(そういえばあのとき、どうして…………?)



 ――――ぞわ、と。


 思考を妨げるほどの悪寒が背筋を駆け抜け、ブリジットは身震いした。


 もはや夢の中には居られない。

 何事かと思えば、見える限りの世界はすべて、霜に覆われていて……ブリジットは静かに目を見張った。

 震えるほどの冷気。あり得ない現象が起こっている。


(……今って、初夏……よね?)


 まさか、と思う。

 この場に居る人間で、こんなことが出来るのは。


(ユーリ様……?)


 だが、声は出ない。ただ唇から白い息が出るだけだ。

 それに身体も、凍りついたように自由が利かなかった。


 なんとか視線だけを動かせば、冷然とした無表情のユーリが目に入る。


 先週、ニバルがエアリアルを暴走させたときとは違う。ユーリの背後に従える精霊の姿はないからだ。

 ただ、彼の強すぎる魔力が空間に溢れ、この場を圧倒――否、制圧している。


 そうしてブリジットやリサを含め、誰もが動けない中。

 彼だけは、冷気をまとう顔をいとも簡単に持ち上げてリサを睥睨してみせた。


 白く凍った世界で彼は誰よりも美しかったが、その視線は刃のように鋭かった。




「――第三王子の代行者にでもなったつもりか? しがない男爵家の令嬢が」




 恐ろしく冷たい声音。

 ユーリがそんな風に話すのを、目にするのは初めてで……ブリジットはひどく驚く。


「……、……」


 リサの顔が一瞬にして恐怖に染まった。

 だがその足も、地面に張りついたように動かすことができない。


「以前にも僕は忠告したはずだ。今後、余計な手出しをした場合は看過できないと」


(……? 余計な手出し……?)


 その言葉の意味を、リサ自身は分かったのか。

 身体を這い上がる冷気のせいだけではない様子で、彼女の顔が白くなっていった。


「忠告をこうして無視した以上、覚悟は出来ているということだな」

「……!」


(いけない……!)


 怯えるばかりのリサの足を、霜が覆っていく。

 止めなければ、とブリジットは思った。



 でなければ、確実に……ジョセフとユーリ――より正しくは王族とオーレアリス家の間に、決定的な亀裂が入ることになる。



 リサは王族であるジョセフが懇意にしている少女なのだ。

 彼女に暴力を振るったという扱いになれば、ユーリの前に広がっているはずのまばゆい未来が鎖されることになるかもしれない。


 そんなことを考えると、それだけでもう、ブリジットは耐えられない。


(ユーリ様を止めないと……)


 先日の授業のときは、エアリアルが起こした嵐を、ブリジットの精霊――と思われる――が放った光が消滅させてみせた。

 だが先ほどから何度呼びかけても、精霊はブリジットに応じない。だから自力でどうにかするしかないのだ。


 そして、ブリジットは気がついた。


(……私、両手だけは動かせるかも)


 正しくは、両手の肘から下だが。

 その理由にも遅れて気がついた。


 ブリジットはいつも、肘まである白い手袋を身につけている。

 以前は別の物を使っていたが、これはオトレイアナ魔法学院に入学する際に、別邸の使用人たちがブリジットのためにプレゼントしてくれたものだ。


 属性魔法に強い竜の皮と鱗、それに炎でも焼き切れないと称される魔蜘蛛の糸を使って作られたこれは、一流の冒険者が使うような素材ばかりをふんだんに使っている。

 だから伯爵令嬢が身につけるものとしては、相応しくないかもしれない。


 それでもブリジットは、彼らの心遣いが本当に嬉しかった。


 二度と誰にも傷つけられないようにという、祈りにも近い願い。

 贈り物に込められたそれを感じて……本当に嬉しくて、仕方がなかったから。


(ユーリ様っ……!)


 考える暇はなかった。

 ブリジットは隠しから取り出したそれを、渾身の力で投げつける。



(お願い、当たって……!)



 ――そして狙い違わず。

 それはユーリの頭に、見事に命中ヒットした。



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