第19話.称える声
一時間ほど後。
ユーリが帰った後はほとんど眠りにつけなかったブリジットは、制服に着替えて教室への道を歩いていた。
授業はもうとっくに終わっているのか、廊下にはほとんど人気がなかった。
まだ少し怠いような感覚があるので、時折手すりや壁を使いながら、ブリジットは重い足取りで進んでいく。
そうして教室に辿り着いて。
何気なく前扉を開けたブリジットは、驚いて固まった。
クラスメイトたちが……ニバルを除いて、全員着席していたからだ。
どことなく暗い顔をしていたクラスメイトたちは、ブリジットに気がつくと立ち上がり、そのうちの何人かが慌てて駆け寄ってきた。
そうして、口を揃えて叫ぶように言うのは。
「――ありがとうございました! メイデル伯爵令嬢!」
(え? えっ?)
ブリジットは目を白黒とさせる。
しかし普段は話したこともない彼ら彼女らは、代わる代わるに続けた。
「ブリジット様が居なかったら、どうなっていたことか……!」
「恐ろしくて、ここで死ぬんだと思ったんです。でもそんなとき、温かい光が守ってくれて」
「あの精霊の力、すごかったです。エアリアルの暴走をいとも容易く止めるなんて」
言葉を返す余裕もない。
次から次へと、感謝や労りの声が掛けられる。
「お怪我はなかったですか? 本当にごめんなさい、私たちだって勇気を出してエアリアルを止めるべきでした」
「この前の筆記試験のときも……気づいて、ペンをお貸しするべきだったのに」
「僕たち、王子や周りに睨まれるのが怖くて、何も力になれなくて」
ひとりずつの瞳を見れば、すぐに分かった。
誰も嘘を言っていない。勇気が出なかった、怖かったのだと、羞恥を堪えて明かす声には痛みと罪悪感が宿っている。
目の前に立つ女生徒の瞳を、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「あなたはすごい方です、ブリジット様」
――そして。
それらはすべて、ブリジットを心から称えていて。
(……ああ、そうだわ。私)
人の視線が怖かった。
注目を浴びるのが怖くて仕方がなかった。
誰も彼もが、ブリジットを嫌い蔑んでいる。
そう思い込んで……周りの人間を全員、敵のように認識していた。
(……
勝手に心を閉ざしていたのは、きっとブリジットのほうだ。
誰もが自分を嫌うのだとそう決めつけていた。
もちろん、心からブリジットを嫌う人だっていくらでも居るだろう。
だけど二十人近い生徒が、ブリジットの帰りをこうして今か今かと待ってくれていたように。
「わ、わたくし……」
ブリジットは喉を震わせながら、そんな彼らに言葉を返そうとした。
しかし同時に、教室の後ろ扉が開き――全員が小さく、息を呑んだ。
一斉に刺さるような視線の中、ニバルはきっぱりと答える。
「許可をもらって、荷物だけ取りに来たんだ」
(……目立つ怪我はないみたい)
そのことにブリジットは密かに安堵したが。
しかしその首に、先ほどまでなかった光る物を見つけ――はっとした。
目にしたのは初めてだが、恐らくあれは。
(【魔封じの首輪】……)
対象者の魔力を封じ込め、同時にその根源である精霊をも封じる魔道具のひとつである。
重い罪を犯した犯罪者につけられ、流刑に処する際に使用すると聞いたことがあった。
マジョリーは厳しい罰はなくて済みそうだ、というようなことを言っていたが――十分に厳しい処罰だ。
魔法が使えなくなること、それだけではない。
一目見れば、罰を受けた身だと一目瞭然なのだから。
ニバルは注目を浴びながらも言葉通り、自分の席に向かう。
……しかし何故か、その途中で踵を返すと、こちらに向かって歩いてきた。
自然と、周りの生徒たちが、ニバルからブリジットを庇うようにして立ち塞がる。
しかし彼らに、ブリジットは首を振った。
もともと、ニバルが暴走した原因はブリジットにもあるのだから。
「……級長。わたくしに言いたいことがあるなら、はっきり仰っていただいて構いませんわよ」
ブリジットが挑むように鋭く見据えると、ニバルもまたものすごい眼力でブリジットを見下ろす。
周囲で見守る生徒たちが、緊張に唾を呑み込む。
ニバルがゆっくりと、口を開いた。
「その。あ、あ、あり、あり……」
「…………?」
(アアアリアリ……?)
何かの暗号だろうか。
訝しげな視線に気づいたのだろうか、ニバルはさらに視線を右往左往させながらも。
やがて――消え入りそうなほど小さい声で、確かに言った。
「――ありが、とう。あなたのおかげで助かった」
……ブリジットは唖然とした。
周りの生徒たちも信じられないというように、顔を見合わせている。
そんなブリジットに向かって、ニバルは苦虫を噛み潰したような顔でさらに。
「それに今まで本当に……申し訳なかった。謝って済むことではないと思うが、せめて頭を下げさせてくれ」
(今、『ありがとう』って……それに私に謝った……?)
あのニバル・ウィアが。
ブリジットを嘲り、見下していた男が――深く頭を下げて、謝意を表している。
……ごしごし、とブリジットは目を擦った。
「……ごめんあそばせ。わたくしまだ、夢の世界に居るようですわ」
「ゆ、夢じゃない。この通りだ。本当に申し訳なく思っているんだ」
「……また何かの罠に引っ掛けようと?」
「違うっ。信じてくれぇっ!」
もはや床に頭がつきそうなくらいに頭を大仰に下げるニバル。
さすがにここまで来ると、「信じない」と言うわけにもいかず……。
しかし「そうですか」とは受け入れがたいので、ブリジットは声を潜めてそんなニバルに問い掛けた。
「……良いんですの?」
「…………」
「公の場で、わたくしに頭を下げたなんてジョセフ殿下に知られたら――」
「……そうだな。俺も家も、タダじゃ済まないかもしれない。でもそもそも、精霊を暴走させた時点で……王族の側近の道はあり得ない。もう出世街道は捨てたも同然なんだ」
つまり、自暴自棄になったということなのか。
だが顔を上げたニバルは、意外にも晴れやかな顔をしていて、あまりこの事態を嘆いているようにも見えなかった。
そんなニバルに、ブリジットはさらに気になっていたことを訊いた。
「それだけじゃありませんわ。級長、わたくしのことが嫌いだったでしょう?」
「え?」
「そんな相手に頭を下げるなんて、ひどい屈辱ではありませんか」
「それは……」
何故か、ニバルが言葉に詰まる。
だがやがて、彼は泣き笑いのような表情で肯定した。
「そう……そうだな。俺は、あなたのことが嫌いだった」
(そうでしょうね)
だが過去形ということは、少なからずブリジットのことを認めてくれたのだろうか。
(と言っても、結局自分の契約精霊のことは分からないままだけど……)
そもそも感謝の言葉を受けるべきはブリジットではなく、嵐を消し去り全員を守った精霊のほうなのである。
しかしブリジットが知る精霊の中に、嵐を消滅させる光を放つ精霊なんてものは居ない。
悩みは深まったような気がするが――それはそれとして、ブリジットはニバルに言っておきたいことがあった。
「それとエアリアルのことですが」
「!……ああ。覚悟はできている」
なんの覚悟だろうと疑問に思いつつ、ブリジットは伝えた。
「契約者の怒りに呼応して共に怒ってくれた、とても優しい精霊ですわ。【魔封じの首輪】がある以上は、しばらくお話も出来ないでしょうけど……その後はどうか、労って差し上げて」
(私が言うようなことじゃないと思うけど……)
余計なお世話だ、とそれこそ怒られてしまうだろうか。
そう覚悟したが、ニバルは愕然と目を見開いて。
「あなたは……優しくて強い女性だな。ブリジット・メイデル伯爵令嬢」
挙げ句の果てにそんなことを言ったので、ブリジットは目をむいた。
「やっぱりどこか、頭でも打ったのでは……」
「打ってないっ。それで、これから……何か困ったことがあったらなんでも言ってくれ」
熱に浮かされるような瞳が、じっとブリジットを見つめる。
なんだか似たような言葉を、つい最近、聞いたような気がする。もっと素直じゃない言い様だったけれど。
「あ、あなたの――力になりたいんだ」
きゃあ、と何人か周りの女子が黄色い声を上げる。
その発言には思わず、ブリジットもほんのりと頬を染めた。
「ありがとうございます。……それならひとつだけ、望みがありますわ」
ニバルの顔がぱぁっと輝いた。
「なんでも言ってくれ! あなたが望むことなら、俺はなんだって――」
「本当!? では、エアリアルにまた会わせてくださいな!」
「ああ、もちろ――……エアリアル?」
どこか呆然としているニバルに、コクコクと激しくブリジットは頷く。
「ええ。嵐を呼ぶとされる風の精霊っ! 実物を見たのは初めてでしたの。でも先ほどは余裕もありませんでしたから、次はもっと間近でエアリアルを見つめて観察したいのですっ!」
ニバルが急に、脱力したように床に膝をついた。
きょとんとしたブリジットは、周囲の空気が変化しているのにも遅れて気がついた。
(何かしら……。みんなが、哀れむような目をニバル級長に向けているような……)
そしてブリジットのことは、何やら生温かい視線で見ているような気がする。
その理由を訊こうとしたところで、ニバルが力のない声で言った。
「……分かった。もちろんだ。あなたの望みはなんでも叶える」
まぁ、とブリジットは両手を合わせた。
「意外と親切だったんですわね、ニバル級長って」
「……いや、うん……親切か……ハハ」
(なんで泣きそうな顔を……?)
何がなんだか分からなかったが。
気がつけば、いつもよりずっと自然な笑みを、ブリジットは浮かべていたのだった。
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