第16話.水の精霊

 


 図書館に向かったブリジットは、館内を一回りしても目当ての人物が見つからなかったので、続けて四阿へと向かっていた。


 ここならばと思ったのだが、いつもの席にユーリの姿はない。

 肩で息をしながら辺りを見回し、ブリジットは溜め息混じりに呟いた。


「……今日はいらっしゃらないのかしら」


 ユーリとブリジットは友人でもなんでもない。

 毎日会おうなんて約束をしているわけじゃない。だから――彼がここに居ないのだって、別におかしなことではないけれど。


(私、ガッカリしてる……)


 そんな自分に呆れて、引き返そうとしたそのときだった。

 ふと――耳元を異音が掠めた気がして、ブリジットは振り返る。


(水音……)


 もしかして、と四阿の横の石造りの階段を下りていく。

 その内に――さらさらと、水の流れる音が耳朶を打つ。

 図書館の庭園の下には小川が流れており、その小川の先には森が四方に広がっているのだ。


 時折、課外授業で森に足を踏み入れることはあるのだが、図書館側から入るのは初めてなので、ブリジットの呼気は物珍しさに弾む。

 理由は決して、それだけではなかったけれど。


(見えた!)


 階段を下りた直後に。

 ブリジットの足裏で、パキンと乾いた木の枝が折れた。


 こちらに背中を向けていた人物――ユーリが、警戒するように鋭く振り返る。

 しかし瞳の険しさは、ブリジットを見留めるとほんの少しだけ和らいだようだった。


「……ブリジットか」

「ユーリ様」


 ブリジットはほっと息を吐いた。

 そしてその直後に、ブリジットは気がつく。


 ユーリの目の前に、水の中に浮かぶ精霊の姿があったことに。


(ウンディーネ!)


 そうと認識した瞬間に、ブリジットは思わず口を開いていた。


「なんて美しいっ……!」

『――あら。なんて素直なお嬢さん』


 微笑むウンディーネに言葉を返され、思わずブリジットの頬が紅潮する。


 最上級水精霊の一角を担うウンディーネ。

 足先は小川の中に溶け込んだように宙に浮かぶその精霊は、挨拶するように、水かきのついた手をひらひらと振ってみせた。

 精霊には人間のような性別はないとされるが、人の女性の姿を象ったとされる流体の精霊は、息を呑むほど美しい容姿をしている。


 その声色も、彼方から響いてくるように遠く、ぼんやりとしているが、やはりずっと聴いていたいと思うほどに心地が良くて。


(洗練されていて、隙がない美貌…………)


 なんて綺麗なのだろうか。


 じっと見惚れていたブリジットは、ユーリに「おい」と呼びかけられるまでしばらく自失していた。

 ようやく意識を取り戻して、慌てて頭を下げる。


「わ、わたくし、最上級精霊とお話するのは初めてで……っ、申し訳ございません、興奮してしまいましたわ」


(ウンディーネの虜になる人間の男性が多いのも、分かる気がする……!)


 呆れた様子で溜め息を吐くユーリ。

 彼の目の前で精霊の魅力にアッサリと囚われかけていたのが恥ずかしく――なにせ精霊博士になりたいと宣言した後なので――ブリジットは少々縮こまった。


「初めてって……メイデル伯爵家なら、何体かようしているだろう?」

「そうなのですが……目にしたことはあっても、わたくしが対話することは許されませんでしたので」

「…………、そうか」


 失言に気づいたというように、ユーリが目を逸らす。


(く、空気が重くなっちゃった?)


 慌ててブリジットは口を開き直した。


「も、もう一体の精霊は?」

「え?」

「ユーリ様は、二体もの最上級精霊と契約してらっしゃるではありませんか」


 基本的に精霊種は――中でも最上級とされるウンディーネなどの精霊は、人間界に自然的に姿を現すことはしない。

 間違いなく目の前の精霊は、ユーリの契約精霊のはずである。


 それならば、もう一体の最上級精霊も傍に居るのはないかと思ったのだが。


「いや、アイツは……」


 ユーリが何やら言い淀む。

 彼にしては珍しく、少し困っている様子だ。


「……気分が優れないらしい。今は出たくないと」

「そうなのですね……」


 それなら無理に顕現してほしいとは言えない。

 するとそれまで黙っていたウンディーネが、『あら?』と片手を頬に当てた。


 陽射しを浴び、光を全身に抱いたように煌めく美貌が、間近からブリジットを覗き込む。


『その燃えるような赤い髪の毛――もしかして、炎の一族の子?』

「は、はい。ブリジット・メイデルと申しますわ」


 ドキドキしながら名乗る。

 やっぱりね、というようにウンディーネが笑う。


『ってことは、契約してるのはイフリート?』

「……いいえ。わたくしは……微精霊と契約していますの」

『微精霊?』


 ウンディーネが顎に人差し指――らしきところを当てる。


『……あなた。私のマスターは"氷の刃"と呼ばれているそうだけど、あなたはなんて?』

「……"赤い妖精"、と」


 躊躇いつつ答えると、朗らかにウンディーネが頷く。


『"赤い妖精"ね。素敵な呼び名じゃない』

「そう……でしょうか?」


 ブリジットは苦笑する。

 取替え子チェンジリングの暗喩だと知っているから、とてもじゃないが受け入れがたい陰口なのだが。


『そうよ。あなたにピッタリの呼び名よ、ブリジット』


 ちくり――と、針で胸を突かれたような痛みを感じ、ブリジットは沈黙した。



 ――『は、俺の子どもじゃない』



 十一年前。

 父に焼かれた腕が治らず、高熱に魘され続ける中、遠くから何度か……そんな怒声が聞こえた。

 ヒステリックに否定する母の声。それをまた、罵倒して遠ざける父の声。



 ――『俺の本当の子どもは、精霊界に連れ去られたんだ。取替え子チェンジリングされてな』



 取替え子。

 ……人間の子どもと、主に妖精種とされる精霊が取り替えられてしまうことがあるという古い伝えだ。

 もしもそれが真実ならば、確かにブリジットに"赤い妖精"という呼び名は相応しいのだろう。


(私は、本物のブリジット・メイデルと入れ替わっただけの、妖精ってことになるのだから……)


「……ウンディーネ」


 咎めるようにユーリが呼ぶ。しかしウンディーネは怯まなかった。

 むしろ楽しげに、面白がるように、暗いブリジットの顔を覗いてくる。


『あなた、そう……気づいていないのね』

「え?」

『あなたが契約しているのは――』


 だがそこで、ふいにウンディーネは口を閉ざした。

 黙り込む精霊に、ブリジットが困惑の目を向けると。


『…………そうね。そう遠くない未来に、名前が分かるんじゃないかしら』

「えっ……」

「……ウンディーネ。変に期待させるようなことを言うな」


 ユーリが渋い顔で注意すると、ウンディーネは可憐な乙女のように頬のあたりの水をぷくりと膨らませる。


『マスターこそお気づきでないの? なんだかガッカリしちゃう』

「……どういう意味だ?」

『知りませんわ』


 そのままぷいっと顔を背けたかと思えば、ウンディーネは小川の中に飛び込んでいってしまった。

 おそらく、精霊界へと渡ったのだろう。なんだか圧倒されるばかりで、ブリジットはその姿がすっかり消失しても、しばらく口を開けずにいた。


 ブリジットをからかうつもりで、あんなことを言い残したのだろうか?

 ウンディーネの真意がよく分からない。しかし精霊の言動の意図を探るというのも、人間にはまず難しいことなのだ。


「まったく……気まぐれなヤツだな」


 気を取り直すようにユーリが呟く。

 目を向けると、ユーリもちょうどブリジットを横目で見ていた。


「ところで、何か用事があったのか?」

「え? ああ、ええと……精霊学の授業で、契約精霊とのコミュニケーションを披露するという課題が出まして、ユーリ様にコツを教えていただこうかと」


 ブリジットが本題を思い出してそう言うと。

 ユーリは眉を寄せ、唸るように言い放った。



「僕に分かると思うのか?」



(…………そうですよねぇ)


 ものすごく納得しつつ、ブリジットは密かに肩を落としたのだった。



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