第10話.波乱の筆記試験
(ついにこの日が来たわ……っ!)
試験当日の朝。
ブリジットは普段より一時間も早く起きると、支度を終えて家を出た。
馬車に揺られる間、さすがに教材を開いたりはしなかったが……窓の外の景色に目をやりながら、頭の中で苦手な試験範囲を振り返っていく。
筆記試験は、今日一日の日程を使って行われる。
科目は人理学、歴史学、魔法基礎学、魔法応用学、精霊学、薬草学の計六つだ。
中間試験であれば、翌日に実技試験があるのだが、今回はその心配をしなくて良いのが救いだった。
教室に着くと、さっそくブリジットは席でノートを広げ、最後の復習に取り掛かった。
(魔法学の多くは精霊と絡むから、覚えやすくて良いのよ。薬草も、精霊が好む種が多いから頭に入りやすいわ)
精霊中心で頭が回っているブリジットは、同様の理由で歴史学も大の得意である。
何故なら、王国の歴史は精霊と共に歩んできているからだ。
――ただし今回、ブリジットが相手にするのは天才と称えられるユーリ・オーレアリスだ。
一問たりとも落とさない、という気合で臨まなければ、彼には絶対に勝てないと思う。
(……いいえ、私は勝つ! 勝ってあの男に吠え面をかかせてやるわ……!)
ブリジットは決意に燃え、一限目の人理学のノートを捲るのだった。
◇◇◇
三科目の試験を終えて。
手応えを感じつつブリジットは、食堂での食事を済ませて教室へと戻っていた。
以前はジョセフと共に、食堂に五つしかない半個室の一室で食事をしていた。
ワインレッドの上質なカーテンが引かれたその部屋は、高位貴族御用達の場であることから、プチサロンとも呼ばれている。その部屋を使うことは、家柄や権力の誇示にも繋がるのだ。
それは、過去のブリジットにとって特別な空間だった。
だが、ジョセフにとってはそうではなかったのだろう。
今ではそこからジョセフとリサの楽しそうな笑い声が、毎日のように漏れ聞こえてくるから。
(……さて、次は魔法応用学ね)
ジョセフのことを考えるのはよそう、と軽い溜め息で淀んでいた思考を流す。
さっそく鞄の中身を探り当て、必要な物を机の上に並べたところで……ブリジットは気がついた。
首を僅かに捻ってから、再び鞄の中を真剣に探る。
だが、やはりなかった。
(…………嘘)
ブリジットは呆然とした。
(ペンがないわ)
きちんと仕舞っていたはずの筆記具が、跡形もなく消え失せていた。
念のために机の周囲や、窓枠の付近に目を走らせるがどこにもない。
(……誰かに盗まれた?)
眉間に皺を寄せ、ブリジットは唇を噛み締める。
相手は分からないが、間違いないと見ていいだろう。何せご丁寧に、予備で持ってきていたペン類までなくなっているのだから。
今まで、こんな低俗な嫌がらせをされた経験はなかった。
陰口を叩かれたことはいくらでもある。だが、王族の婚約者であるブリジットに、表向きは誰も手出ししてこなかったのだ。
自分で思っていた以上に、ジョセフの存在による恩恵は大きかったのかもしれない。
今ではそれをもう、ありがたく思うような心境ではなくなっているが。
(……そうだわ。購買なら……)
立ち寄ったことはないが、食堂の横に小さな購買店があったはずだ。
だが、今日は試験のため閉まっていたのだと数秒遅れて思い出す。何から何までついていない。
それに試験の際はすべて、必要なものは自分で用意すべしというのが学院での決まりである。
教員に申し出れば、その場で零点と判定を下されるだけだ。
「どうしよう……」
焦りは増していくばかりで……思わず、ほんの小さな声で呟く。
ブリジットには、気軽にペンを借りられるような人間は居ない。
どこからか風でペンを運んできてくれる風精霊も居なければ、誰かが落としたペンを拾って届けてくれる土精霊だって居ない。
ほんの一瞬、一学年下の義弟の顔――正しくは、そのぼんやりとした後ろ姿が頭に浮かぶが。
首を振り、ブリジットは安易な考えを打ち消した。
(もしお父様の耳に入りでもしたら、それこそ最悪だわ……)
あの父のことだ。
学院でもブリジットが弟に接触したりしないか、密かに監視でもつけていてもおかしくはない。
その場合、ブリジットだけではなく、弟にも罰が与えられる可能性がある。とてもじゃないが巻き込むことはできなかった。
(他には……うう、誰も思いつかないっ)
頭を抱えたくなる。
分かっている、悪いのは自分だ。誰からも疎まれるようになったのも、親しい友人が出来なかったのも、ブリジットの高慢で嫌みな振る舞いの結果なのだ。
だが今日だけは、他のことに心を惑わされず試験だけに集中していたかったのに。
(オーレアリス様との勝負があるから……)
ユーリ・オーレアリスの涼しげな眼差しを思い出す。
ただでさえ天才と名高い彼なのだ。
三科目の試験で無得点になったなら――それこそ、もう勝負にもならない。
一科目だって、大きな失敗は許されないのだ。それくらいユーリは聡明な少年で、だからこそ、ブリジットも彼に勝ちたいと心底思ったのだから。
それにあれだけ啖呵を切っておいて、「筆記具を紛失しました」なんて馬鹿馬鹿しい報告をしたならば。
『そうか』
きっとユーリはそう呟いて、あの美しい
所詮こんなものかと呆れて、つまらない言い訳を用意してきた勝負相手にうんざりして……それで愚かな赤毛の女のことなんて、綺麗さっぱり忘れてしまうことだろう。
……でも、と強く思う。
(私、どうしてもあの人に勝ちたいのよ……!)
――だから、そうだ。
手段なんて選ぶ余地はない。
どんなに見苦しくても足掻かなければ、とブリジットは心を決める。
「席に着いてください。次の試験を始めます」
そのとき、前扉から魔法応用学の教師が入ってきた。
「…………」
固く唾を呑み込んで。
ブリジットは親指と人差し指の間で、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます