第9話.封じ込めた夢
「ねぇブリジット。どうしてあなたは、もっと頑張れなかったの?」
幼いブリジットは、震えている。
母に抱きしめられながら、耐えられずに震え続けている。
口調ばかりは子を労るように優しい母の言葉は、実際はひどく刺々しい響きばかりを孕んでいて――ブリジットは見開いた両の瞳から、ぽろぽろと涙を零し続けていた。
尚も、母は続ける。
自らを哀れむように溜め息を吐きながら、父に焼かれたブリジットの包帯だらけの腕を熱心に見つめながら、何度も繰り返す。
「あなたのお父様はイフリートと契約した、立派な方なのよ。おじいさまもそうよ。メイデル家はずっと…………。それなのにどうして、あなただけが駄目な子なの? 私が……悪かったの? 私がいけないの?」
――ごめんなさい。ごめんなさい、おかあさま。
ブリジットは必死に謝った。
実際は、声はうまく出ていなかったかもしれない。それほどの恐怖と緊張と、母への罪悪感で……頭がいっぱいになっていたから。
母は虚ろな目をして、そんなブリジットを見下ろす。
「他の男の子どもなのか、それとも
――ごめんなさい。でもおかあさま。私ね、私…………。
◇◇◇
「…………おい。大丈夫か?」
目を開けてからもしばらく、ブリジットは反応を返すことができなかった。
全身の鳥肌が立っていて――頬を冷や汗が伝っていって。
それをどうにか誤魔化すために、乾いた唇を開いた。
「……ええ、平気ですわ」
ひび割れたような声音は、我ながらひどく聞き取りにくいものだった。
いつの間にそこに居たのか、目の前の彼――ユーリ・オーレアリスは、ハァと溜め息を吐いてみせる。
「とてもそうは見えないが」
ブリジットが入館したときも、数えるほどしか利用者は居なかったが、今や自習スペースには二人の他に誰の姿もない。
窓の外の景色を見ると、既に薄闇が広がっているから、一時間以上は寝てしまっていたのだろうか。
きっとユーリも、この静かな図書館で自習に励んでいたのだろう。
それで居眠りに興ずるブリジットの姿に、苛立って注意してきたに違いない。
「……すみません。図書館で居眠りしてしまうなんて」
「居眠りというより、気絶に近いんじゃないか?」
指摘に言い返せず、ブリジットは押し黙る。
手にしたままになっていたペンを、ぎゅうと握った。
ブリジットが寝る間も惜しんでの猛勉強を始めたのは、そもそも目の前のユーリとの勝負事がきっかけである。
三週間先の定期試験での点数を競うこと――そして、負けたほうは、勝ったほうの言うことをなんでもひとつ聞かなくてはならないという条件つきの勝負。
別に、ほぼ初対面に近いユーリを相手に何かお願い事があるわけではないが、馬鹿女馬鹿女とけなされたブリジットとしては、ここで一矢報いたいという思いである。
もともと、勉強だって嫌いではない。
新しいことを学ぶのは楽しいし、長時間、机に向かうのだって苦ではない。
今までだって休みの日は教科書や本を読んで過ごしていたくらいである。
学院での成績は散々なものだが――それはジョセフの言葉を聞き入れて、そのように振る舞っていたからだ。
(まぁ、精霊の加護が薄いから、実技はどちらにせよひどいものなんだけど……)
ここ数日は自室のみならず教室でも、ブリジットは休み時間となると教科書とノートを机の上に広げ、黙々と勉強をして過ごした。分からないことがあればすぐさま教師に質問をした。
そんなブリジットを、「乱心か」とクスクス笑う声も聞こえてきたし、ある日はリサが覗き見てニヤニヤとしているのにも気づいていたが……そんな雑音、ユーリへの対抗心に燃えるブリジットにとってはどうでもいいことだった。
(それに私には、
ブリジットの夢。
幼い頃からのその夢も、今では口に出せなくなって久しいが。
すべての学習は、夢を叶えるための道に繋がる。
それが分かっているからこそ、勉学に手は抜けないのだ。
……だが、そう考えるたびに、その夢そのものが母への裏切りなのではないかとも思う。
上級精霊と契約できなかったブリジットは父の跡を継げない。きっと将来、メイデル家に籍を残すことも許されない。
今後ひとりで生きていけるように努力することは、決して悪いことではないはずだけれど。
それでも。
未だにあの、母の――ゾッとするほど冷たい腕の中に閉じ込められているような気がして。
小さく身震いするブリジットの頭上から、無感情な声が降ってきた。
「それで、どうする。今のうちに降参するか?」
何を言われたか分からず、ブリジットは顔を上げた。
ユーリは目にかかった横髪を、軽く直しながら気のない声で言う。
「負けると分かっている勝負だ。無理をして体調を崩すより、早めにリタイアしたほうがダメージが少なくて済むぞ」
(な、なんですって……)
相も変わらずの上から目線の発言に、ブリジットの表情筋が思いきり引き攣る。
それに気づいているのかいないのか、ユーリは続けて。
「残念だが、今さら毎日の勉強時間を少し増やした程度では僕には勝てない。お前も分かっているんじゃないか?」
「…………っ!」
ユーリの言っていることは、言い方はともかく明らかに正論で。
でも、やっぱり、ブリジットは「はいそうですか」と頷きたくはなかった。
だってそんなのは、まるで……夢の中で震えていた少女のすべてを、否定するようだったから。
(負けたくない!)
ただその一心で。
ブリジットは勢い良く立ち上がると、ユーリの胸元を指さして叫ぶように言い放った。
「勝負の結果は、まだ分かりませんし――そうやって調子に乗っていると、わたくしに負けたときが恥ずかしいですわよっ!」
広い館内に、甲高いブリジットの声が響き渡る。
ユーリはほんの少しだけ、驚いたように目を見開いていたのだが……それも数秒後には元に戻っていた。
「……そうか」
「そうですわよ!」
「威勢だけは立派なことだな」
「威勢よりも立派な試験結果を残してやりますわ覚悟あそばせっ!!」
「あ、あの。もう少しだけ、どうかお静かに……」
……が。
またもや、扉の隙間から顔を出した眼鏡の女性司書に注意されてしまって。
「……し、失礼しましたわ」
ブリジットは顔を赤くして、慌てて口元を押さえた。
(私ったら、またうっかり……!)
ここは図書館で、沈黙を尊ぶべき場所である。
自習スペースには人気はないが、本棚の側は別だろう。
もしかして生徒から苦情が来て、わざわざ司書が注意に訪れたのかもしれない。
そろそろうるさすぎて入館拒否とかされてしまうかもしれない。それは困る。
(今後は気をつけないと……)
ひとりで赤くなったり青くなったりしていると、まだ目の前に立っていたユーリが小さく息を吐いた。
「では、僕は失礼する。小鳥の甲高い鳴き声を間近で聞いたせいか、耳鳴りがするんだ」
「……そうですか。お大事になさってくださいませ、オホホ」
嫌みと分かってはいたが、気づかない振りをして見送ってやる。
すると背中をジッと睨んでいるのがバレたのか、扉を開いたところでユーリが振り返った。
「なっ、なんです?」
「……お前も」
「はい?」
「お前も体調が悪いなら医者に罹ったほうがいい」
それだけ言って、ユーリはさっさと出て行ってしまった。
残されたブリジットは、しばらくポカンとして……それから、ユーリの言葉をゆっくりと反芻する。
暗に医者に罹るほど、ブリジットの声はやかましいと文句を言いたかったのか。
それとも、もしかすると。
(……私のことを気遣ってくれたの?)
ブリジットの体調が悪そうだったから、さっさと寝ろという意味で言ってくれたとか――。
……そんなことを思いついてから。
ブリジットはふるふると首を左右に振った。
(いや、まさかね)
でも、敵にこれ以上、弱味を見せるわけにはいかない。
今日からは自習のペースは落とし気味にしよう……と、ブリジットは方針を改めつつ、ノートを片付けに取り掛かるのだった。
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