第8話.嘲笑うリサ
(うわぁ、何あれ!)
覗き込んだ隣のクラスの様子を見て、リサは耐えられずに吹き出していた。
視線の先には、ブリジット・メイデル――ほんの数日前に婚約者だった王子に婚約破棄を告げられた女の姿がある。
高慢なブリジットのことだから、きっとクラスでも惨めに、きぃきぃとあの甲高い声で騒いでいるのではないかと思ったのだ。
だが実際は違った。リサの想像以上の光景が、目の前で繰り広げられていたのだ。
ブリジットは、窓際の後ろの席――自分の席に着いて、机に向かっていた。
机の上には教科書と参考書が広げられていて……それに熱心に目を落としながら、右手をノートの上に滑らせている。
それが何を意味するのかは、考えるまでもなく。
(もしかして、勉強してるの……? あ、頭悪いのにっ……!?)
あまりにも滑稽で、大声を出して笑いそうになる。
今さら何を学んだところで、あの空っぽの頭に何かを詰め込めるわけもないだろうに。
いや、むしろ頭が悪いから、ああやってなりふり構わない姿を周りに見せられるのだろうか?
(『なんにもダメージを受けてません』アピールのつもりなら、ますます笑えるわ)
現に、生徒たちもそんなブリジットを避けるように、ひそひそと言葉を交わし合っている。
だが当の本人は、何も聞こえない振りを必死に続け、勉強に集中しているような演技をしているのだ。
(あんなの、ジョセフ様に捨てられるわけだわ……)
心の中でブリジットの奇行を嘲笑いながらも、リサは思い出す。
ブリジットから奪い取ることができた婚約者――ジョセフとの出会いのことを。
――ジョセフ・フィーリド第三王子。
リサにとって彼は、物語の中に出てくる白馬の王子様のような人であった。
輝かしい金髪と、同色の瞳。
背は高く、佇まいには気品と華がある。
その美貌と、口元に浮かんだ柔らかな微笑みで、彼は学院中の女生徒をときめかせてやまない存在だ。
幸運なことに、ジョセフとリサはクラス分けで同じクラスに配属された。
学院の掲示板に貼り出されたクラス表を見たとき、リサは舞い上がるほどに嬉しかった。
まさに夢のようだ、と思った。一生、会うこともできないほど遠いおとぎ話の中の人と、近しくなれたように感じたのだ。
だが王子であるジョセフと、貴族と
転機となったのは、学院に入学して半年近く経っての魔法薬学の授業だ。
偶然、班分けでジョセフと同じ班になったリサは、それだけで浮かれていたのだが……校外で薬草の採取を行っていると、ジョセフが呟いているのが風に乗って聞こえた。
『これは……』
ジョセフが手にしていた薬草に、リサは見覚えがあった。領地によく生えている種だったからだ。
薬草の名や種類について、リサはジョセフに近づいて説明した。なんとなく、数年前に庭師が話していたのを聞きかじっていたのだ。
あのときは緊張していて、ほとんど何を喋ったか覚えてはいないが――リサが話し終えるとジョセフは優しく微笑んでくれた。
『セルミン男爵令嬢は、とても頭が良いね』
『えっ……』
聞き間違いかとリサは呆然とした。
ジョセフは少し弱ったように眉を下げていた。
『俺の婚約者とは全然違う』
そこでようやく、リサは顔を赤くした。
それが明らかに、褒め言葉だったと分かったからだ。
(ジョセフ殿下が、婚約者を嫌っているっていう噂は本当だったんだわ……)
ブリジット・メイデル。
ジョセフの悪評高き婚約者のことはよく知っている。
婚約者の立場に胡座を掻き、貴族にあるまじき振る舞いばかりをする恥知らずな女だ。
心優しいジョセフは、今までそんなブリジットのことを見捨てず寄り添い続けてきた。王国に暮らす者なら誰もが知っている美談である。
だが、そんなジョセフもいよいよブリジットに嫌気が差してきたのではないか。
そう考えると、リサにはジョセフとの出会いが、神様が与えてくれた絶好の機会のように思えてならなかった。
それから、ジョセフとリサは少しずつ話をするようになった。
もちろん、自分からジョセフに話しかけられるわけもない。彼のほうからリサを気に掛けてくれるようになったのだ。
リサは疲れた様子のジョセフをいつも気遣った。
ブリジットを罵り、彼女の対応に手を焼かされているジョセフを労った。
気持ちが通じたのか、ジョセフもリサに心を開いてくれて……今では二人は、障害を乗り越えて恋人同士の関係となったのだ――。
「ジョセフ様ぁ!」
そして今。
ブリジットをずっと眺めているのもつまらないので、教室へと戻って。
リサはちょうど席を立っていた王子様――ジョセフへと駆け寄った。
人目を憚らずに抱きつこうとすると、肩にそっと手を置かれる。
きょとんとするリサに、ジョセフが耳元で囁いた。
「ここじゃ邪魔が入るかもしれないから、移動しようか」
「は、はいっ」
初心な少女のように、リサは頬を染めて頷く。
そのまま二人で教室を出て行く。そんなリサの姿を、同じクラスの生徒たちは羨望の眼差しで見送った。
廊下ですれ違う生徒たちも、こぞって振り返るのが気持ち良くて堪らない。
下々の者たちの注目を受け、リサは自慢の髪を靡かせながら、自慢げにわざとゆっくりとした足取りで歩いてみせた。
冴えない男爵家の令嬢だった以前とは、もう何もかも違うのだ。
王子に見初められたリサに取り入りたいと考える人間だって、予想以上に多かった。
今や多くの取り巻きに囲まれ、彼ら彼女らから、リサは毎日のようにちやほやとされる日々を送っていた。
伯爵家令嬢でありながら、ジョセフから見捨てられたブリジットとは、もはや立場は完全に逆転している。
確かにブリジットは、それなりに美しい少女だっただろう。
だが今やブリジットは、リサを引き立てるための惨めったらしい小道具のひとつに過ぎない。
(ブリジット・メイデル。アンタはそうして、いつまでも不様に足掻いていたらいいわ)
ほくそ笑んで考えながら。
「ジョセフ様。そういえばブリジットがおかしいんですよ」
人気のない空き教室に辿り着いた直後に、リサがそう話しかけると。
先を歩いていたジョセフが足を止め、ゆっくりとリサを振り返った。
「……彼女に会いに行ったの?」
「お可哀想なので、様子を見に行ってあげたんです。そうしたら、彼女、机に向かって熱心にペンを動かしていて……」
耐えきれずにクスクスとリサが笑うと、ジョセフが驚いたような顔つきになる。
「ブリジットが勉強していたって?」
「ええ、そうです。おかしいですよね! あんなに馬鹿なんだから、勉強なんてしたって無駄なのに」
「…………」
ふと、ジョセフが黙り込んだが、リサは深く気にしなかった。
きっとジョセフも元婚約者の醜態に呆れているのだろう。そう思うとさらに愉快で、ますます調子づいて言い募る。
「前回の筆記試験だって、最下位に近かったって噂で聞きました。きっと今回もますますひどい結果になるに決まってます!」
「ふふ、そうだね。――そういえばリサも、あまり筆記試験は得意じゃないんだったかな」
「…………っ!」
首を傾げられ、リサは顔を赤くした。
ジョセフの言う通り、リサの成績も良いほうではなく、順位は下から数えるほうが早い。
だが、ブリジットよりはよっぽどマシだ。それが分かっているから、一方的にブリジットのことを嗤っていたのだ。
(でも……)
これは万が一。
あくまで、万が一のことだが……ブリジットが張り切って勉強をして、奇跡的にリサよりも良い点数を取るようなことがあったら。
きっとジョセフはがっかりするだろう。
そう考えると、リサは冷静ではいられなかった。
(……打てる手は、打っておいたほうがいいわね……)
取り越し苦労でも別にいい。どちらにせよ、ブリジットに惨めな思いをさせることが出来るのだから。
そうしてリサが、ブリジットへの嫌がらせの方法について思案していると。
不意に――ジョセフに強引に抱き寄せられた。
「あっ……」
彼の腕の中、リサは甘い吐息をこぼす。
こんな風に、ジョセフに強引な一面があることだって、きっとリサだけしか知らないことだ。
そう思うとますます嬉しさが増していって、リサはゆっくりと目を閉じた。
しばらく、幸せな抱擁が続いた後。
リサはドキドキと胸を高鳴らせて問うた。
「あの……ジョセフ様。婚約はいつにしましょうか?」
「え?」
ジョセフが首を傾げる。
そんなジョセフを見上げ、リサは瞳を潤ませてみせる。
「婚約、というか……両親にも、そろそろ報告したいですし」
「……そうだね……婚約を破棄した直後に他の女性と婚約するというのは、体裁が悪いから。噂が出回らなくなってからがいいだろうね」
その回答には、些かムッとしたが……表情には悲しさだけを演出した。
(まぁ、仕方ないんだろうけど……早く公式に、王子の婚約者として振る舞いたいわ)
「もちろん、俺もすぐにリサと婚約したいんだけど」
「ジョセフ様……」
しかしそんな彼の言葉にまた嬉しくなって、リサはジョセフに身体を寄せる。
リサの腰を抱いたジョセフは、至近距離でにっこりと笑ってくれた。
それを見て、リサはうっとりと噛み締める。
(ああ、あたし……本当にこの素敵な王子様の、お嫁さんになれるのね……)
――そのとき、幸せの絶頂にあるリサは気がついていなかった。
惚けたわけではなく、ただきょとんとした――
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