第3話.狭い檻の中
ジョセフに婚約を破棄された、翌日。
学院が休みであるその日は、朝から雨が降り続いていた。
じっとりと、窓の外の景色が濡れていく。
雨音を聞きながら……ブリジットはぼんやりと、寝台の上に腰掛けていた。
意識はどこか微睡んでいたが、安らぎはない。絶えず雨の音が聞こえてくる所為だろう。
父に腕を焼かれた五歳の日――。
あの日も、朝から小雨が降り続いていたのだ。
(痛い……)
ともすれば痙攣しそうになる左腕を、右手で押さえつける。
有無を言わさず、応接間に連れて行かれて。
燃え盛る暖炉を前にして、腕を容赦なく掴んだ感触。
恐怖に喉が引き攣ったが、大の男の力に敵うはずもなくて。
記憶の中で――悪鬼の形相をした父が責め立てるように何度も叫ぶ。
絶叫するブリジットの腕を炎の中で焼き焦がしながら、叫んでいる。
少しは期待に応えてみせろ、この無能、役立たず、穀潰し――。
その声がどうか聞こえないようにと、ブリジットは目蓋を強く閉じ、両耳を塞いだ。
(もう十一年も前の、ことなのに……)
どうしていまも、こんなにもひどく痛むのだろうか。
表情を歪めるブリジットだったが、ドアをノックする音が聞こえ、慌てて顔を上げた。
おずおずと返事を返すと、入室したのはブリジットの専属侍女であるシエンナだった。
「ブリジットお嬢様」
オレンジ色の髪を揺らし、お仕着せ姿のシエンナが頭を下げる。
前下がりのボブヘアーが特徴的なシエンナは、ブリジットより二歳年上の少女で、メイデル家の遠縁に当たる商家の娘だ。
背が低いのもあり、並ぶとブリジットのほうがよっぽど年上に見えるくらい幼い外見なのだが、優秀な彼女のことをブリジットは心から信頼していたし、密かに尊敬していた。
「胃に優しいお食事を用意しています。少しでも、お食べになってください」
跪くように床に両膝をつき、シエンナがブリジットの顔を覗き込む。
目が合うと、どこかシエンナの表情は苦しげに見えた。
凛とした美貌のシエンナだが、声には切実な響きがあって、主人であるブリジットを気遣っているのがありありと分かった。
気分が優れないからと、昨夜帰ってくるなりずっと部屋に籠もっているから、心配してくれているのだ。
(何があったのか、もうシエンナたちも知ってるのね……)
ジョセフから一方的に言い渡された婚約破棄。
身に覚えのないことを責められ、糾弾され……昨夜は逃げ帰るように屋敷に戻ってきた。
両親の耳にも、当然この事実は入っているはずだ。
だがブリジットを尋ねる客人はない。
それにほっとしているのか、落胆しているのか、それすらブリジットにはよく分からない。
「私が、ブリジットお嬢様の侍女でなければ……あなたを抱きしめて慰められましたのに」
「誰も咎めたりしないわ、シエンナ」
その言葉にシエンナは立ち上がると、おずおずとブリジットのことを抱きしめてくれた。
「十年以上も……苦しみ続けていたお嬢様に何も出来ず、申し訳ありませんでした」
「何を言ってるの。ずっとわたくしのことを、気に掛けてくれていたじゃない」
ごめんなさい、とブリジットが謝ると、シエンナは驚いたように身を固くした。
それから震える声で、いいえ、と答える。どうしてもっと早く言えなかったのだろう、とブリジットは後悔でいっぱいになった。
シエンナだけではない。
別邸の使用人たちはみんな、ジョセフの言いなりになってばかりのブリジットにそれとなく苦言を呈してくれていたのに。
(私が愚かだった……彼女たちの言葉に、少しも耳を貸さなかったんだから……)
ブリジットとシエンナは、出会った当初から良好な仲だったわけではなかった。
というのも、このメイデル家の別邸は――そもそも、ブリジットを隔離するために造られた場所なのだ。
(罰を与えられた私に、なんの罪もないのに付き合わされた、可哀想な彼女たち……)
名無しと契約したブリジットのことを、父は許さなかった。
メイデル家の本邸に居る資格はないと、敷地内の隅っこに小さな別邸を急遽用意し……そこに、ようやく怪我の後遺症から回復しつつあったブリジットを押し込んだのだ。
二度と本邸に顔を見せるな、メイデル家の面汚しめ、とだけ言い置いて。
(そんな父の所業を、誰も止めてはくれなかった)
ブリジットの母は、目も合わせてはくれなかった。もはや母にとっても、ブリジットは目にするのもおぞましい存在だったのだろう。
そしてシエンナを始めとした何人かの侍女たちは、メイデル伯爵よりブリジットの世話係を言いつけられ、メイデル家の邸宅から異動を余儀なくされたという経緯がある。
侍女だけではなく、料理人や庭師たちも同様である。本邸にて実力に乏しいと判断された数人が、こうしてブリジットが住む別邸に共に移されてきたのだ。
そういう理由があったから、移り住んだ当初、ブリジットと周囲はやはり上手くいかなかった。
それでもこうして数年、毎日顔を合わせて過ごしていくうちに……次第に打ち解けられたように思う。
彼らは、ジョセフの言う通りに外では高慢ちきに振る舞うブリジットのことだって、いつも見放さずに居てくれた。
家族から捨てられた孤独になんとか耐えられてきたのも――そしていま、婚約者から捨てられた絶望に囚われずに済んでいるのも、シエンナたちが居てくれたからなのだと思う。
この狭い檻の中で、彼女たちの存在にだけは温度を感じられるから。
(…………温かい)
シエンナのおかげで、冷えていた身体に少しだけ、温もりが戻ったような気がする。
「……ありがとう、シエンナ」
そう呟くと、シエンナがゆっくりと身を離す。
オレンジ色の瞳には、シエンナにしては珍しくどこか悪戯っぽい色が浮かんでいた。
「雨が止んだら」
「ええ」
「衣装棚のピンクのドレスはすべて燃やしましょうか」
「えっ。それは……」
「燃やしましょう」
シエンナが薄く微笑んで繰り返す。静かな迫力に、ブリジットはこくこくと頷いた。
「それでは温かいシチューを用意していますので、召し上がってください。料理長がお嬢様を心配しすぎて、包丁も離さずに厨房をうろうろしているのです」
「そっ、それは困るわ……た、食べます。ちゃんと食べるってネイサンに早く伝えないと」
温かい、しかも適量の食事をいつでも提供してもらえるのは、この小さな別邸の利点のひとつである。
ブリジットが慌てて答えると、シエンナは満足そうに「私が伝えておきます」と頷いた。
「お部屋にお運びしましょうか」
「そうね。そうしてもらえる?」
かしこまりました、とシエンナが礼を取る。
こんな風にシエンナと落ち着いて会話するのも久しぶりのように感じる。
そうして笑顔で見送りかけたときだった。
「……あなたのどこが、高慢で愚かな令嬢なのでしょうね。ブリジット・メイデルお嬢様」
ふと、呟きが耳を掠めて。
でもそのときには、シエンナの姿は扉の向こうに消えていた。
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